頼政の紅葉も能因法師か秋風も都より長途をふる事を読れしが我国よりはその境わつかなからけふや旧望の足る事のうれしくて
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しら川やけふまねき出す若楓
| 几
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寛延4年(1751年)秋、和知風光は『宗祇戻』の旅で白川の関を出立する。
| 行脚
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白川の関出立の吟
| 風光
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はせを湖十両翁の踏れし細道をこゝろさして
鶴のあとまたもや鴈そ世話やかん
宝暦2年(1752年)、白井鳥酔は白川の関で芭蕉の面影を偲んでいる。
○白河關 日數ふるまゝに漸白川驛に至るかの法師の俤を思ひよせて
草の葉や秋風そふく關の跡
宝暦13年(1763年)4月6日、二日坊は松島の帰りに白河の関を訪れている。
明和6年(1769年)4月16日、蝶羅は嵐亭と共に白河の関を越え句を詠んでいる。
卯月十六日朝霧ふかく白川の関こゆるとて、
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はじめて杜宇を聞侍りて
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白川のほの明越えにほとゝぎす
| 嵐亭
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越てきけはじめておくの郭公
| 蝶羅
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同年5月、蝶羅は象潟からの帰途、再び白河の関を越え句を詠んでいる。
霖雨に白河の関越るとて
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さミだれや行儀に関のぬかり道
| 蝶羅
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明和7年(1770年)、加藤暁台は奥羽行脚の旅で白河関を越える。
白川
| | 信夫郡福島
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そし頃おもひかけし関の古道今将にこゆべしとは見ぬ世の共にさし向へるこゝちせられて何とはなくちからあり。故人衣を潔く冠を正すときく。一嚢を腋(ワキ)にし荊蕀をまとひて枕をさだむ、孤貧の行脚たゞ扇一本威議(ママ)をとゝのへ飄々としていたる、
白川を前に扇の切目(セメ)きらむ
| | 暁台
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香にひるがへす袖に橘
| | 呑冥
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明和8年(1771年)8月12日、諸九尼は白河関跡で句を詠んでいる。
覚束なき日数つもりて、十二日にハ白川の関に出ぬ。山も野もを(お)しなべて色づきわたる。木ずゑどもの川づらにうつりて、からくれなゐに染なせる気色、都にはまだ青葉にてみしかども、紅葉ちりしくと詠じたるも、そゞろに心にこたへて、
いつとなくほつれし笠やあきの風
安永2年(1773年)7月、加舎白雄は「奥羽紀行」の旅で白河関跡を訪れた。
かへりみおもふ白河や故園の情秋なをさびし
関の戸やあふぎやぶれしあきの風
応山田氏索 白雄坊
関越へて只々広し国の秋 斗墨
何足の艸鞋はきけん関の秋 烏光
階行せし二人りの吟也ひとりはとく亡人の数にさへ成ぬ
天明2年(1782年)9月、加藤暁台は再度白川の関を越えて奥州に入る。
老情旅にせまりて再び白川の関をこゆる。
見つゝゆけば茄子腐れて往昔(むかし)道
寛政3年(1791年)6月3日、鶴田卓池は白川の関で句を詠んでいる。
享和元年(1801年)5月、常世田長翠は白河の関を越えて句を詠んでいる。
曽良ハ卯の花をかさしに旅の心をあらため、白雄ハ秋風に扉やふりて古郷をおもひ、我ハ皐月の日かけをしのひ、白河の関こゆる日ハいとうちくもり、靄のあなた、霞のこなた、たゝたゝ広くたゝたゝひろし。
岩間乙二も句を詠んでいる。
県道76号坂本白河線と平行して国道294号(旧陸羽街道)がある。
国道294号の栃木と福島の県境に境の明神がある。
芭蕉と曽良は旧陸羽街道を通って「奥の細道」に入ったようだ。
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