『奥の細道』東 北


白河関跡

 東北自動車道白河ICから国道4号を通って国道289号へ。右折して県道76号坂本白河線に入る。

しばらくすると、白河関跡がある。


白河関跡に古歌碑があった。


便りあらばいかで都につけやらむ今日白川の関はこえぬと
   平兼盛

都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関
   能因法師

秋風に草木の露をはらわせて君がこゆれば関守もなし
   梶原影季

能因の歌は万寿2年(1025年)の作と推定されるそうだ。

 文治2年(1186年)、西行は奥州行脚。それ以前にも白河の関を訪れている。

陸奥の國へ修行して罷りけるに、白川の關に留まりて、所柄にや常よりも月おもしろくあはれにて、能因が、「秋風ぞ吹く」と申しけん折何時なりけんと思出でられて、名殘り多くおぼえければ、關屋の柱に書き付けける

白川の關屋を月の洩る影は人の心を留むる成けり

天養元年(1144年)頃の歌であるようだ。

關に入りて、信夫と申邊、あらぬ世の事におぼえて哀れなり。都出でし日數思ひ續けられて、「霞と共に」と侍ることの跡辿り詣(ま)で來にける心一つに思知られて詠みける

みやこ出でて逢坂越えし折までは心かすめし白川の關


 弘安3年(1280年)秋、一遍上人は白河の関を越えて奥州に入り、江刺の郡(岩手県北上市)に祖父河野通信の墓をたずね、その菩提を弔った。

身越数つるす徒累心越寿轉川連半於裳日なき世耳すみ曽めの袖
(身をすつるすつる心をすてつればおもひなき世にすみぞめの袖)

 応仁2年(1468年)10月、宗祇は白河の関を訪れ、兼盛や能因に思いを馳せている。

 兼盛能因こゝにのぞみて、いかばかりの哀れ侍りけんと、想像に、瓦礫をつゞり侍らんも中々なれど、皆思ひ餘りて、

宗 祇

都出でし霞も風もけふみれば跡なき空のゆめに時雨て

行末の名をばたのまず心をや世々にとゞめん白川の關

『白河紀行』

 文明19年(1487年)、道興准后は白河の関に到る。

是より、いな沢の里、黒川、よさゝ川などうち過ぎて、白河二所の関に到りければ、いく木ともなく山桜吹きみちて、心も詞も及び侍らす。暫く花の蔭にやすみて、

  春は唯花にもらせよ白川のせきとめすとも過きむものかは

おなじ心を、あまたよみ侍りける中に、

  とめすともかへらむ物か音にのみ聞きしにこゆる白川の関

  しら川の関のなみ木の山桜花にゆるすな風のかよひち


 永正6年(1509年)7月、宗長は駿河を出て奥州白河を目指すが、戦乱のため断念。『東路の津登』

 寛文2年(1661年)、西山宗因は松島からの帰途白河の関を越えている。

 此度は白川の関にかゝりて、

   遠く来てあき風分る関路かな

   雁よまて故郷へ一書二所関

「松島一見記」

 貞亨4年(1687年)4月3日、大淀三千風は須賀川を立ち、白河の関に着く。

○卯月三日須賀川を立、白河の關につく。

秋かぜにあれてのゝちも白河の關屋と名のるほとゝぎす哉


三千風は白河の関から遊行柳へ。

 元禄2年(1689年)4月21日(新暦6月7日)、芭蕉は白河の関を訪ねた。

 心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて、旅心定りぬ。いかで都へと便求しも断也。

『奥の細道』に芭蕉の句はない。

   白河関

西か東か先早苗にも風の音
   翁

我色黒きと句をかく被直候。


県道76号坂本白河線沿いに芭蕉の句碑がある。



西か東か先早苗にも風の音

 元禄3年(1689年)、路通は白河の関を訪れた。

   白川の関にて

名月や衣の袖をひらつかす


 元禄9年(1696年)、天野桃隣は『奥の細道』の跡をたどる旅の帰途で須賀川から白河にさしかかり、句を詠んでいる。

 又こゆべきと、白河にさしかゝり、

   ○しら露の命ぞ関を戻り足


 享保元年(1716年)4月30日、稲津祇空は常盤潭北と奥羽行脚の途上白川に着く。

卅日、山道をひたくたりにして、白川柴山氏に午の刻過につく。雨ゆへ滞留。

   鬼門関今はすみよき煮酒かな

「谷響集」に東北の隅を鬼門関とす。和朝にては白川なるへし。あふくま川流れて城下町々有。

貫さしや関吹こして夏柳
    北


 寛保2年(1742年)4月13日、大島蓼太は奥の細道行脚に出る。10月6日、江戸に戻る。

   白河関

片袖は秋の風なり夏ごろも


 延享2年(1745年)、望月宋屋は「奥の細道」を辿る旅に出て、白河で句を詠んでいる。

   白河關

白河に袖かき合すしぐれ哉


 延享4年(1747年)、横田柳几は陸奥行脚の途中で白河を訪れている。

頼政の紅葉も能因法師か秋風も都より長途をふる事を読れしが我国よりはその境わつかなからけふや旧望の足る事のうれしくて

しら川やけふまねき出す若楓
    几


 寛延4年(1751年)秋、和知風光は『宗祇戻』の旅で白川の関を出立する。


行脚
   白川の関出立の吟
   風光

   はせを湖十両翁の踏れし細道をこゝろさして

鶴のあとまたもや鴈そ世話やかん


 宝暦2年(1752年)、白井鳥酔は白川の関で芭蕉の面影を偲んでいる。

○白河關 日數ふるまゝに漸白川驛に至るかの法師の俤を思ひよせて

   草の葉や秋風そふく關の跡


 宝暦13年(1763年)4月6日、二日坊は松島の帰りに白河の関を訪れている。

六日

能因法師、源三位頼政の言の葉を思ひ出て

日黒ミもいさ白川の戻り道
   坊


 明和6年(1769年)4月16日、蝶羅は嵐亭と共に白河の関を越え句を詠んでいる。

   卯月十六日朝霧ふかく白川の関こゆるとて、
   はじめて杜宇を聞侍りて

白川のほの明越えにほとゝぎす
   嵐亭

越てきけはじめておくの郭公
   蝶羅


  同年5月、蝶羅は象潟からの帰途、再び白河の関を越え句を詠んでいる。

   霖雨に白河の関越るとて

さミだれや行儀に関のぬかり道
  蝶羅


 明和7年(1770年)、加藤暁台は奥羽行脚の旅で白河関を越える。

白川
   信夫郡福島

そし頃おもひかけし関の古道今将にこゆべしとは見ぬ世の共にさし向へるこゝちせられて何とはなくちからあり。故人衣を潔く冠を正すときく。一嚢を腋(ワキ)にし荊蕀をまとひて枕をさだむ、孤貧の行脚たゞ扇一本威議(ママ)をとゝのへ飄々としていたる、

白川を前に扇の切目(セメ)きらむ
暁台

 香にひるがへす袖に橘
呑冥


 明和8年(1771年)8月12日、諸九尼は白河関跡で句を詠んでいる。

覚束なき日数つもりて、十二日に白川の関に出ぬ。山も野もを(お)しなべて色づきわたる。木ずゑどもの川づらにうつりて、からくれなゐに染なせる気色、都にはまだ青葉にてみしかども、紅葉ちりしくと詠じたるも、そゞろに心にこたへて、

   いつとなくほつれし笠やあきの風


 安永2年(1773年)7月、加舎白雄は「奥羽紀行」の旅で白河関跡を訪れた。

   かへりみおもふ白河や故園の情秋なをさびし

関の戸やあふぎやぶれしあきの風

応山田氏索   白雄坊

   関越へて只々広し国の秋   斗墨

   何足の艸鞋はきけん関の秋   烏光

階行せし二人りの吟也ひとりはとく亡人の数にさへ成ぬ


 天明2年(1782年)9月、加藤暁台は再度白川の関を越えて奥州に入る。

   老情旅にせまりて再び白川の関をこゆる。

見つゝゆけば茄子腐れて往昔(むかし)


 寛政3年(1791年)6月3日、鶴田卓池は白川の関で句を詠んでいる。

   白川関

白川やこゝろとむれば鳴水鶏


 享和元年(1801年)5月、常世田長翠は白河の関を越えて句を詠んでいる。

曽良ハ卯の花をかさしに旅の心をあらため、白雄ハ秋風に扉やふりて古郷をおもひ、我ハ皐月の日かけをしのひ、白河の関こゆる日ハいとうちくもり、靄のあなた、霞のこなた、たゝたゝ広くたゝたゝひろし。

草□の奥ハ日和か国の関

戸谷双烏、戸谷朱外宛書簡

岩間乙二も句を詠んでいる。

   ふる事をおもひ出て

えぼし着て白川越す日春の山


県道76号坂本白河線と平行して国道294号(旧陸羽街道)がある。

国道294号の栃木と福島の県境に境の明神がある。


芭蕉と曽良は旧陸羽街道を通って「奥の細道」に入ったようだ。

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