『奥の細道』

〜殺生石〜

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貞亨4年(1687年)、大淀三千風は白河の関から遊行柳、殺生石を見ている。 |
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○げに既に下野の國那須野にいる。かの道の邊柳、殺生石を見侍し。 |

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元禄2年(1689年)4月19日(新暦6月6日)、芭蕉と曽良は殺生石を訪れた。 |

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芭蕉高弟中川乙由の門人麻父の句で、しばらくは芭蕉の句として殺生石の傍らにあった。 |
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大正14年(1925年)7月3日、荻原井泉水は殺生石で「芭蕉」の句を見ている。 |
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柵の中に近く「飛ぶものは雲ばかりなり石の上 芭蕉」と書いたばかに大きな碑が立っている。しかし、これは断じて芭蕉の作ではなく、又、その句も純月並であって拙く、且つ、かんじんな殺生石よりもその碑の方ががんばって大きく感じられ、柵すらもその碑のために作ったかのようで、全体として調和のとれぬ点も醜い。これは那須湯本村の名誉のために敢て撤回をすすめたいと思う。
『随筆芭蕉』(那須の湯) |
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元禄9年(1696年)、天野桃隣は殺生石で句を詠んでいる。 |
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殺生石 此山間割レ残りたるを見るに、凡七尺四方、高サ四尺余、色赤黒し。鳥獣虫行懸り度々死ス。知死期ニ至リては、行逢人も損ず。然る上、十間四方ニ囲て、諸人不入。辺の草木不育、毒気いまだつよし。 ○哀さや石を枕に夏の虫 ○汗と湯の香をふり分る明衣哉 |
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「明衣」は神事・儀式に用いる浄衣(じょうえ)。もとは天皇の御湯殿(おゆどの)に奉仕する蔵人(くろうど)が用いた湯帷子(ゆかたびら)をさした。あけのころも。あかは。 |
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宝永6年(1709年)、明式法師は殺生石を訪れている。 |
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これより那須野をすく、山陰に殺生石有、石まろび出て害をなさず、おろかなる蟲螻(けら)のをのれ飛かゝりて、をのれを殺す。自業あはれを催し侍る。 |
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享保元年(1716年)4月26日、稲津祇空は常盤潭北と奥羽行脚の途上殺生石を訪れている。 |
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馬かりて那須野にゆく。藪を出れは野、野を出れは柏原、いくたひかおなしさまにて湯本にとまる。あけの朝、これより二三町山の半腰をつたひて殺生石にいたる。谷焦の余烟ところところにもえ、一ケの垣をかこみ、その中に二尺三尺計の赤黒の石十はかりも見ゆ。この毒気にふれて虫こかれ、鳥こゝにたをる。東莱郡の爛鳥にもまさりて冷し。禅師の一棒にくたかれてもたゝ白砂兀山のたゝすまひなり。 この石は夏を以ての枯野かな |
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元文3年(1738年)4月4日、山崎北華は日光から殺生石を尋ね、太田原へ。 |
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諸越より天竺に渡る流砂越といふなる。十三日の糧を包むと聞えし廣原の有様も。斯やといと心細し。左の方遙に。高原山。那須山連り見ゆ。殺生石。此野にありと聞きて尋ねしに。山水の度々出て。土流れ石埋れ。石のある所までは至らず。實に人の言ひし如く。啄む物なければ。鳥も影なく。鷄犬聲絶て。旅人一人にも逢はず。固より山賊の類もなく。漸々にして太田原の驛に出て宿す。 蟷螂の張臂おかし獨り旅 |
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元文3年(1738年)4月19日、田中千梅は松島行脚の途上、殺生石に案内された。 |
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日も傾きぬれハ宿を求て温泉に浴すあるし案内して殺生石を教ゆ石の毒氣いまた亡(ほろ)ひす蝶蜂の類真砂の色乃見へぬほとかさなり死す |
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延享4年(1747年)、横田柳几は陸奥行脚の途中で殺生石を訪れている。 |
| 殺生石にて |
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| 葛もいま若葉そ滝のうら表 | 白尼 |
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宝暦2年(1752年)、白井鳥酔は殺生石で句を詠んでいる。 |
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○同殺生石眼前 野の石や破れた中から女郎花 |
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明和6年(1769年)4月、蝶羅は殺生石で句を詠んでいる。 |
| 殺生石 |
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| 君が代や石はくだけて苔の花 | 蝶羅 |
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安永2年(1773年)、加舎白雄は殺生石を訪れた。 |
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殺生石 祖翁のあはれみ給ひしがいとゞ人を刺蜂のたぐひあるは蒼蝿の死せるありくるしむあり蒼蝿蒼蝿と忌憎まるゝもいまつしにあはれなりけり
加舎白雄「奥羽紀行」 |
| 殺生石にて |
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| 露おかぬ石のおもてや埒のうち | 白雄 | ||||||||||||||||
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暑き日や蝶鳥落て石黄ミ |
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寛政5年(1793年)、小林一茶も殺生石を句に詠んでいる。 |
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初霜や殺生石も一ながめ |
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昭和2年(1927年)10月、小杉未醒は殺生石を訪れている。 |
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殺生石は二つの谷川の合流點、磧の中に在つて、今も虫などの骸落ち居り、或時學生が、ステツキで砂中に穴を作つて、鼻をつけて嗅いで見て、其まま倒れたと云ふから、いつまでも九尾の狐の呪毒は殘つて居ると見える、 |
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昭和6年(1931年)、斎藤茂吉は殺生石を訪れている。 |
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楢山の雨は晴れつつ曇る日を殺生石に死ぬ鳥を見し
『石泉』 |
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昭和30年(1955年)7月、富安風生は賽の河原を訪れている。 |
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賽の河原 飛燕群れ殺生石も古りにけり
『古稀春風』 |
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昭和33年(1958年)、水原秋桜子は殺生石を訪れている。 |
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殺生石 石まろぶ中に露干し石ひとつ 秋風や硫黄こぼるゝ芒の根
『蓬壺』 |
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昭和40年(1965年)3月、山口誓子は殺生石の句碑を訪ねている。 |
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ホテルに泊った。雪が降って来た。湯本の殺生石を見に行く。 石原である。賽の河原である。硫化水素の臭がする。正面は山腹で、なだれ落ちた石がかたまっている。それが殺生石である。芭蕉の句碑が立っている。扁平の自然石。 いしの香やなつ草あかく露あつし 「安閑く」が読みにくい。
『句碑をたずねて』(奥の細道) |
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殺生石 殺生石雪もこの世のものならず
『一隅』 |
| 昭和48年(1973年)7月、加藤楸邨は殺生石を訪れた。 |
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左側に大きな 飛ぶものは雲ばかりなり石の上 という碑がある。「ばせを」の部分が埋めつぶされているのだが、剥落して見えている。勿論これは芭蕉の句ではなく、麦林派の俳人麻父の作である。石の毒気で近よるものがないという心が先ず用意されていて飛ぶものは雲ばかりだと発想するその前提の条件と眼前の景との間に、仕掛けが用意されたところに、麦林調が感ぜられる。芭蕉の句は、右側に小さく建てられた句碑に刻まれており、曾良も「日記」の条に書留めているが、 石の香や夏草赤く露あつし である。 この方はぴったり殺生石に即して発想している。石の毒気を帯びた香が芭蕉には頗る心惹くものであった。青いはずの夏草も赤く枯色を帯び、露までが暑くるしい妖しさだというのである。 |
