俳 人

石井雨考
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『青蔭集』

 藤井晋流の門人二階堂桃祖に俳諧を学ぶ。須賀川の鎮守諏訪神社近くに住み、夜話亭と号した。

雨考   須賀川中町 菓子や石井久右ヱ門


 寛延2年(1749年)、須賀川に生まれる。通称勝右衛門。

 雨考は須賀川の相楽家に伝来した「すゞしさを」歌仙を見つけた。

 文化6年(1809年)、『繋橋』(幽嘯編)刊。雨考序。成美跋。

 文化8年(1811年)、雨考のはからいで多代女鈴木道彦に入門。

 文化10年(1813年)11月12日、石井雨考の世話で江戸の如意庵一阿は芭蕉の句碑を建立。

 文化11年(1814年)、『青蔭集』を刊行。多代女序。成美跋。

 文化12年(1815年)10月13日、最上稲沢の稲州は東都遊行に出立。途次、須賀川の雨考宅に泊まる。

 文化13年(1816年)、雨考と多代女は江戸に旅立とうとしたが、実現しなかった。

そもはいかいの旧跡須賀川に住は世の人の見つけぬ軒よりひとりは栗毛の馬に乗ひとりは笠の緒の玉さやさやと鳴らしてむさしへ旅たつは老人雨考と多代女なりけりうらやましいくら寝てつくはねのはるを見るそ幾日経てすみた川の鴎に逢ふそ

蝶のそく宿なら覗け道のほと
   松窓乙二

『浅香市集』序

 文政8年(1825年)8月、芭蕉の句碑を建立。



世の人の見付ぬ花や軒の栗

文政10年(1827年)7月6日、79歳で没。

千用寺に墓がある。

金剛山千用寺


吾命どの朝顔の露ならむ

門下に市原多代女がいる。

 明治26年(1893年)7月21日、正岡子規は須賀川を訪れている。

 須賀川に道山壮山氏を訪ふ此地の名望家なり。須賀川は旧白川領にして古来此地より出でたる俳人は可伸等躬雨考たよ女なり。


雨考の句

星の名を覚て戻るすゝみかな


物思ふ義人なるらんはるの立


山あらめきくうる人の歸る道


それさへも嵐にあへり蓼の花


   箱根の山踏して

ほとゝぎす人も名のりをしつゝゆく


花ざかりおもひ出しては風が吹


老けりな花見るまでを人まかせ


烏さへ鳴かず人目もかれ柏


烏さへ鳴ず人めも枯がしは


花ざかりおもひ出しては風のふく


老けりな華見る迄を人まかせ


明松(松明)の山え(へ)わかれてなくかはづ


花の夜か明かゝるなり雨なから


永き日のはしから出たり三日の月


秋もはや間近き鷭の額かな


これさへも春の青みや豆腐串


萩の戸や家と申すもおこがまし


門掃くや麦の照穂の朝湿り


さくにしていかにもせはし冬の梅


順礼の鐘撞すてし若葉哉


人にやる菊とて別の色もなし


順礼のかね撞捨し若葉哉


寒空やいつ迄柿の鳴子引


しら雲の人よりいそぐ枯野哉


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