『奥の細道』ゆかりの俳人

相楽等躬

通称伊左衛門。初号、乍憚また乍単斎。藤躬。須賀川の駅長を務めたという。

 寛永15年(1638年)、須賀川に生まれる。

 貞亨4年(1687年)3月27日、大淀三千風は須賀川に着く。等躬は俳諧荵摺』に三千風の句を望んだ。

○此等躬丈、しのふすりといふ俳書をえらひし。予にも發句を望み給ひしまゝに、二句いひ置し

○九十日花さへあるを旅の暮
   同所相樂氏 等 躬

○しのぶすりのはしに序(ついで)やかいつはた



 元禄2年(1689年)4月22日(陽暦6月9日)、芭蕉は須賀川に至り、等躬宅に7泊している。

 一 廿二日

 須か川、乍単斎(相楽等躬)宿、俳有。

『曽良随行日記』

同年、俳諧荵摺』成立。

 元禄9年(1696年)7月、天野桃隣は『奥の細道』の跡をたどる旅の帰途で須賀川に2泊。

 須ヶ川に二宿、等躬と両吟一卷満ぬ。所の氏神諏訪宮へ参詣、須田市正(いちのかみ)秀陳饗応。


長松院に等躬の句碑がある。


あの辺はつく羽山哉炭けふり

岩城平の城主内藤露沾とも親しかった。

勿来の関跡に「勿来八景句碑」がある。


佐糠落雁   等躬

夜は分る孤雁なるらん捨小舟

正徳5年(1715年)11月19日、平城で病死。78歳の時である。

長松院に墓がある。

萬年山長松院


 享保元年(1716年)5月3日、稲津祇空は常盤潭北と奥羽行脚の途上須賀川に着く。

三日、須加川につく。等躬といふ誹のすきもの去年身まかりぬ。息甚蔵を尋しに岩城へ行て逢す。追悼の句をなけて通る。

橘の香や影沼の一おしみ

藤の実の山は浅きにいつれ隈
    北


大田原市の浄法寺桃雪邸跡に連句碑がある。


 芭蕉翁、みちのくに下らんとして、我蓬戸を音信て、猶白河のあなた、すか川といふ所にとゞまり侍ると聞て申つかはしける

雨はれて栗の花咲跡見かな
   桃雪

いづれの草に啼おつる
   等躬

夕食くう賤が外面に月出て
   翁

秋来にけりと布たぐる也
   ソラ

等躬の句

   常陸帯祭

桜子の迷ふや常陸帯祭


迚も死ぬ身なら難波の枯野哉


浅香山影や蚊遣の細明り


肌脱がぬ船頭もなしむら時雨


鳥雲にうんうんとてぞ花の岫


今以その八重垣を牡丹かな