俳 人

夏目成美

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『随斎諧話』 ・ 『成美家集』

成美の句

浅草蔵前の札差。通称、井筒屋八郎右衛門。

東都 

成美   蔵前
   井筒屋


可都里『名録帖』に「成美浅草  井筒屋八右衛門」とある。

車両は夏目成美門の俳人。

 明和元年(1764年)6月朔日、成美は16歳で家督を譲られる。

 明和3年(1766年)18歳の秋、通風にかかり、右足が不自由になった。

   脚病一歩をすゝめず

名月を追ふ(う)てひけひけ庭むしろ

 安永9年(1780年)、重厚は江戸に入り蓼太・成美らと風交を結ぶ。

 天明元年(1781年)6月、重厚は成美を訪れる。

 天明2年(1782年)、34歳の時に弟庄右衛に家名を譲る。翌3年7月22日に弟は亡くなる。

秋の空そゞろにはしりて、陽子が俤まのあたりをさらず。あしたのつゆむらむら見えて、陽子があだなるちぎりをおもふ。陽子なくなりて後われ世にいけるかひなし。われさらに陽子をわするゝ事なし。陽子、地下にわれをなにとかおもふ。

ひとゝせはよくもへにける命かな


われことし三十六、安仁が鬢の髪やゝしろみたり。宗祇法師が髭とはことたがひたれど

香をとめて白髪愛せん窗の梅


   三十九の暮に

さすがまた老といはれむあすの春


 天明8年(1788年)4月7日、蝶夢法師・重厚法師と隅田川で舟に乗る。

七日、和尚・重厚・其由・麦宇と共に、御蔵前の成美子のいざなひに角田川の船に遊び、饗応。


 天明8年(1788年)、『一夜流行』(成美・遅月編)刊。重厚序。

愚ニ重愚四十の雪の霜しら髪
   成美

   しばらく是非を酒に凩ス
   遅月

『一夜流行』

 天明9年(1789年)1月25日、寛政に改元。

 寛政元年(1789年)4月、遅月は江戸を発ち奥羽旅行。宗讃は共に鹿島に遊ぶ。

 寛政元年(1789)10月23日、几董没。享年49。

几董が伊丹といふ所にてにはかになくなり侍りしよし、はや便にいひこしける。風雅にかゝりづらふ人の「道路に死なん是天の命也」と、ばせを翁も書のこし申されける事などおもひなぐさめて

旅笠をつひのやどりやかれ尾花


 寛政2年(1790年)8月初旬、成美は多田薬師に隣接して法林庵(随斎)を設けた。

一茶は、この庵で催される句会等に足繁く通った。

駒形橋を渡ると、墨田区。

駒形橋


 墨田区東駒形1−4、14、15、本所保健センター(旧本所保健所)界隈が多田薬師跡である。


今では跡形もない。

寛政5年(1793年)、娘が6歳で亡くなる。

   すこやかにかはゆかりける成美の
   小娘のあはたゝしくうせて
   二七日はかりに申つかはす

合歓の夕その子とゝきし枝やそも
   みち彦


 寛政5年(1793年)、也鳧庵一艸は潮来の長勝寺に時雨塚を建立した記念集『潮来集』刊行。成美序。

 寛政9年(1797年)、『青蘿発句集』(玉屑編)。自序。成美序。

 寛政12年(1800年)2月27日、成美と一茶の連句がある。両者の連句の初見である。

   寛政十二年二月廿七日

雉鳴て朝茶ぎらいの長閑也
   成美

二葉の菊に露のこぼるゝ
   一茶


 寛政12年(1800年)10月28日、大江丸は道彦と成美の別荘に行く。

 二十九日はたゞのやくしのうしろなる成美のぬしの別荘に行。石町のみちひこともに小舟にさほ(を)とらせ、随斎がいほりに向ふ。

ふたりしてひとりを訪ふや冬籠
   大江丸

 ひざくづれたるしものうすべり
   成

からくりの唯今からに引かへて
   みちひこ


 享和元年(1801年)、井上士朗は門人松兄・卓池を伴い江戸へ赴き、成美、道彦と歌仙。

   成美亭

年々に花の見やうのかはりけり
   士朗

 重きわらじをすてるめすゝき
   成美

獅子舞の約束多き春風に
   みち彦


 文化元年(1804年)3月9日、一茶は成美と雨の中を隅田川の花見に出かけたようだ。

九日 曇 角田川花見 昼より雨

 身の軽き我々の気さんじなる、手の奴足の駕に任せて、雨が降うと、やりがふろ(ら)うと、

花ちるや雨ばかりでも角田川

藪竹はよ程ぬれたに花の雨
   成美

『文化句帖』(文化元年3月)

 文化2年(1805年)2月27日、随斎会。

   廿七日 曇 随[斎]会

なの花にうしろ下りの住居哉

『文化句帖』(文化2年2月)



 文化3年(1806年)の芭蕉忌は夏目成美の所にいたようだ。

   十二日 晴 芭蕉忌随斎ニ有

こんにやくにかゝらせ給へ初時雨

『文化句帖』(文化3年10月)

 文化5年(1809年)4月1日、成美は温泉に出かける予定を先に延ばし、3日から24日まで箱根に行く。24日、成美は帰る。

   一日 小雨又晴 随斎入湯延引 浙江歌仙終

   三日 雨 成美 浙江 箱根湯出立

   廿四日 晴又曇 小金ニ入 成美帰ル

『文化句帖』(文化5年4月)

四月はじめ、はこねのゆあみに出るとて

う月たつ宿は草木にまかせたり


 文化5年(1808年)、多賀庵玄蛙は成美を訪れている。

   随斎の閑窓を訪に

花すゝき人来てハ世の事をいふ
  随斎
 成美

   鶉にあけぬ月の夜もなし
 玄蛙


 同年12月18日、一茶が郷里の柏原から江戸に戻ると、文化元年(1804年)から足掛け5年住んでいた本所相生町の借家が取られていた。

一茶は成美のもとに身を寄せていたようだ。

 夜酉の刻の比(ころ)、火もとは左内町とかや、折から風はげしく、烟(けぶり)四方にひろがりて、三ヶ日のはれに改たる蔀畳のたぐひ、千代をこめて餝(かざり)なせる松竹にいたる迄、皆一時の灰塵(燼)とはなれりけり。されば人に家取られしおのれも、火に栖焼れし人も、ともにこの世の有さまなるべし。

元日や我のみならぬ巣なし鳥

随斎のもとにありて乞食客 一茶述

『文化三−八年句日記写』

 文化5年(1808年)、鈴木荘丹『能静草』夏目成美序。

 文化6年(1809年)、弟庄右衛の二十七回忌で本行寺一瓢上人を招請した。

月見寺(本行寺)


成美老人亡弟、ことし弐十七の祥忌とて葛飾の草庵に懇請せられ、法華一卷を手向て、其日の首客なれば追善の発句せよと望まれたり

あの世まで団扇の届け蓮のめし


同年夏、夏目成美は佐原の恒丸を訪ねた。

 文化6年(1809年)、『繋橋』(幽嘯編)刊。文政2年(1819年)説もある。雨考序。成美跋。

 文化7年(1810年)2月16日、半場里丸を随斎に迎えて俳諧興行。

野ゝ宮の風よけ椿咲にけり
   里丸
小家かりてもかすむ此ころ
   成美
餌袋に鶴の春辺もおしまれて
   幽嘯
垢しむ迄と旅の衣手
   丸
有明の淋しき榎又あれな
   一茶
舟板つめはこほろぎの来る
   嘯
      (※「こほろぎ」=「虫」+「車」)


同年3月4日、一茶は夏目成美宅で屏風の修繕をする。

   四 晴 随斎屏風修造

『七番日記』(文化7年3月)

同年3月11日、成美は角田川に花見。

   十一 曇 折々小雨 随斎角田川花見

夢に見し花に来にけりけふも夢
   成美

行灯や花艸伏(くたびれ)にほそぼそと
    仝

『七番日記』(文化7年3月)

一茶も同行したのであろう。

同年8月30日、一茶は成美別宅の留守番をする。

   卅日 晴 随斎主人本家日祭他駕 一夜守護別業

『七番日記』(文化7年8月)

 文化7年(1810年)9月14日、今泉恒丸は60歳で没。

   こゝちわづれへるに、葛斎老人の訃音をきく。
   まことに十餘年の交りたゞ一朝の仏となりぬ。
   この夏のなかば草堂に来りて附句に遊しこと、
   おもへば此世のとぢめなりける。

おもひつきてわれまたあはん草の露
成美

『玉笹集』

 同年11月2日、夏目成美の留守宅を訪れたところ、金子が紛失して一茶も8日まで留め置かれるという事件があった。一茶は7日の随斎会には出なかったが、17日の随斎会では東本願寺上棟を句に詠んでいる。

二 曇 申九刻随斎ニ入。主人角田川ノ紅葉一覧。
三 晴 卯五刻箱中改メラルゝ所金子紛失ス。
七 晴 会不出
八 晴 金子未出ザレドモ其罪ユルス
十七 曇夜雨 随[斎]会

はつ雪やきのふと成し御上棟

『七番日記』(文化7年11月)

浅草本願寺


同年12月8日、一茶は夏目成美宅の煤払い。

   八 晴 随斎煤払

『七番日記』(文化7年12月)

一茶は守谷の西林寺で年を越す。

西林寺


 文化8年(1811年)1月15日、一茶は流山から成美宅に入り、27日まで留まる。

十五 晴 随斎ニ入

[廿]七 晴 今日迄随斎ニ止 不動表具アルニヨツテ也

『七番日記』(文化8年正月)

同年閏2月13日、成美と一茶の連句がある。

花を折ル心いく度もかはりけり
   成美

   ざくざく汁の春の夕暮
   一茶


 文化9年(1812年)2月17日、随斎会。

   十七 昼ヨリ雨 随[斎]会出莚

   十七日

花さけや仏法わたるエゾガ嶋

『七番日記』(文化9年2月)

 文化9年(1812年)、日向の真彦という神職が小川の松江を訪ねて「翁椀」を贈られた。真彦は喜んで夏目成美に見せた。

 文化10年(1813年)秋、『世美冢』白老編)。随斎成美序。

 文化11年(1814年)4月6日、多田の森から浅草に移る。

   四月六日草菴の名残

鼠なき葎しげらん今宵より

みじか夜はとてもかくても過ぬべし

   右、移栖辞あり。略之


 文化11年(1814年)、雨考は『青蔭集』を刊行。多代女序。成美跋。

 文化11年(1814年)11月3日、一茶は成美宅で半歌仙を巻く。

   三 晴 於随斎三吟半歌仙

『七番日記』(文化11年11月)

石の上の住居のこゝろせはしさよ

雪ちるやきのふは見えぬ借家札
   一茶

   楢に雀の寒き足音
   成美

鍋ひとつ其日其日がうれしくてかな
   一瓢

   たもとかざせば晴るる夕雲かな
   諫圃

諫圃は成美息。

 文化13年(1816年)『成美家集』板。諫圃・子強校合。

 文化13年(1816年)、桂丸は「成美始書句帖」を浄国寺に納めている。

 文化13年(1816年)秋、『的申集』(洞々撰)。随斎成美序。路齋一峨校。

 文化13年(1816年)、俳諧西歌仙』(一瓢編)刊。成美跋。

同年11月19日、成美没。享年68歳。

一茶は布川で成美の死を知る。

   [十]九 晴 布川ニ入 成美没

『七番日記』(文化13年11月)

同年12月2日、一茶は長沼の門人魚淵に成美の死を知らせている。

成美老人も、六十八を一期として、十一月十九日に仏となり申候。

魚淵宛て書簡(文化13年12月2日)

   随斎旧迹

霜がれや米くれろとて鳴雀

霜がれにとろとろセイビ参り哉

『七番日記』(文化13年12月)

   イタミ

君なくて誠に多太(田)の木立哉

『七番日記』(文化14年2月)

 文化14年(1817年)4月9日、一茶は成美の形見として袷を得た。

   九 晴 成美記念袷ヲ得タリ

『七番日記』(文化14年4月)

文政2年(1819年)、『随斎諧話』刊。

文政4年(1821年)春、『四山藁』刊。

栃木県下都賀郡藤岡町「弁天池伝説」の地にある芭蕉の句碑は成美筆。

芭蕉の句碑


名月や池をめくりて夜もすから

諫圃の句

起ふしや我ものとては露の玉


漣やうぐひすひとつ草の中


大雪のあらし山からふり初る


唐迄もなかるゝ花と鴎かな


大竹もなひくや鳫のわたり初


ものに倦て霜夜を覗く眼鏡かな


夕かほやむかし役者の覗かるる


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