三上千那

『白馬紀行』(明式)


明式は本福寺十一世住職。俳号千那。

 宝永5年(1708年)3月、明式法師が堅田を発し、東国・北国の親鸞聖人の遺跡を巡拝した記録。

 3月28日、門出。4月29日、江戸に着く。6月の初め鎌倉へ。中頃、江戸に帰る。8月、常陸へ。冬、深川に帰り越年。7月、再び常陸へ。8月、江戸に帰る。8月末、東国・越後・信州を巡り、9月中旬、江戸に帰る。

白馬紀行

明 式

      釋教篇 第一

旅に品々有、五つが中の釋教のいみじき。參河入道入宋のとき、「逢ことまれに」と讀て、僧都に贈れる。成尋法師の「いく雲井としらぬ」といひし旅の姿いとたふとし。枕にかよふ極樂を夢路の旅と見なしけむ、なをたふとし。はてしなき五々の巷まろびし、小車輓推なし給へる高祖の御めぐり何をもてほうずべきや。ことし寶永の五とせの春、貫首の尊許を拜しかたじけなきをしるべとして、東の方におもひたつ。堅田の網の筌繩(うけなわ)も心もひく行衛ならむ。吉日をしえらばず、三月廿八日を定む。

あふみのやみのゝ袂の露をはらひ、旅のゆかりなれば、まづ笠寺の觀自在にまいる。是の字でら法藏寺は、ありがたき御夢想より、日の下の人とならせ給ふ。いとけなきとき入木習はせ給ふとぞ。草鞋は旅のたすけなるを、此里にひさぐ徽索(ぼやなは)は、何の用ぞや。明主の縛の索とも見まし。長瀬は專海の舊房なり。安城の御影其世なつかしく、笠をとり遥に禮す。柳の寺は矢作の岸に沿へり。高祖もしばしとて立とまり給ふよし。宇津の屋の東、鞠子のにしに柴屋寺といふ小院、宗長すめる跡なりと尋ね行たるに、天柱山吐月峯七曜の池をたゝへ古墓なを殘る。苔の下道いとさびしき。

   蝸牛笹のすべりや車道

清見寺と云たつとき名は、景色にかくれて、いたづらに膏藥の名となる薩タ(※「土」+「垂」)山はいづれのときにか自藏菩薩の海よりあがらせ給へるを、こゝにあがめたてまつりしに、靈驗あらたにして、いまに信仰の輩たえじといへり。此薩タ琶湖に迹たれまします日吉十禪師の御神これなり。古郷とひ出て、しづかにぬかづき侍る。八里の坂に巖窟の堂を見、おそろしき地獄の山路入、ほとゝぎす雨に聞て湯本の早雲寺をとふ。山陰に宗祇の石塔有。むさし相模の汐風にふかれ、寸白といふ虫のいたうかぶりて、草のまくらに秋の露をなごりしも、たゞ旅をこのめるゆへならじと、宗長が筆に見えたり。國府津と云里のひかし、巨波(あらなみ)たゝく岸のうへに、いつの世しらぬ松村だつ。高祖ゐませるあとなりと、遺風稍にひゞく心地してなみだを拭ふ。此所より上都し給ひけむ。

   貞永の夢をいざみむ合歡(ねむり)の木

卯月廿九日武江に着。

五月雨のはるゝをまちて、水無月のはじめ、鎌くら見に行、江戸を出る日。

   鎌倉腹志に笥(はこ)なし夏衣

名高き諸堂を見る中に、日蓮上人難行せられし牢有、妙法のため身を捨給ふをありがたく尋ね入る。そこに敷皮のあとゝて、堂をたつ。瀧口寺と云。盛夏になやみてたましゐ昏し、杖を投て椽に這ひあがる。

   蓮一葉しかれて翁活(いきかへ)

品川の品川寺は、東都第一の大門とぞ。海上禪林の額は、旭にむかひ、汐風松にしぶきて坐禪の衾をかす。牛町引入たる牛のいくめくりして、深川千梅がもとに立よる。風雅にかげかうばし。又鎧のわたしに隣る。文竿にしたしく、俳諧の連歌有、

      神祇篇 第二

野中の森のつま社こや花薄穂に出る神と詠し、また四手(しで)に泪のかゝるたぐひいとたうとし。千早振る神代の旅はしらず。伊夫技の神のとがめして、大和武尊大熱におかされ、身を水にひたし給へる御腰かけの石、醒井の中に有。大醒井小醒井ひとつながれなり。わがかほに鮎のまじりて流るゝけしき、げに興有。南宮のみやしろは、垂井の南なり。不破のしぐれのとしふりて、ちかきころ造榮し給ふ。稻葉萩原の二さと、秋の名のかよひたれば、憂世を侘る虫の音もがなと老の衣手凋れ侍る。美濃をはりのちまた熱田の明神に夜參す。寶殿しづけく影座ましまし、月に鐘のうつり給へる神靈おろそかに思ふべきやは。此國の蓬莱といへるもむべなり。ほのかなる木の間に夜燈は、凍る螢ゆる(※「風」+「占」)ぐかといとたふとく、鳴海づたひの小夜千どりのころも思ひ出、當社八劒のむかし、心にうかぶ。

   草薙に薙れて飛や百合の玉

高師山濱名のはし夕月なつかしけれど、荒井のわたりをぼつかなく御油より本坂にかゝる心うき山中の嶺(とうげ)を背(せな)杖してよろぼひ行、傍の人の見てまことや伏見阡(なはて)よど堤舟引かげに似たるよとといへば、予もむかし舟引の妻の聲歌か合歓の花と云句をたはふれし、今の姿のおもひあはされて、いとおかしかりき。馬にて草の原を過れば、とをたあふみのはまや無(なき)と清少納言のかきし遠江の界に入る。

能因が苗代水の歌は、伊豫の國のことかやひきとしき名に降ります神なればと、三島の明神を禮す。

かまくらのつゐで固瀬(かたせ)の波におぶねさして、江の島に渡る。島の美景いはむかたなし。天女のやしろ三所には、おのおの見めくる。下の宮のあないのもの、脛たかくかゞげて、岸をとぶこと通を得たり。七里が濱まなこのまへに現す。かくてもへける蜑の子ら搗和布(かじめ)をひろひて、波を追ひ熨斗をさらすに、晴を乞ふ。折ふし伊豆山の方夕立もよひて、風先ひやゝかに、波おくりつ。岩根に汗を入る。

   離れ鵜や妻子だしぬく雨の松

森戸の明神、鶴が岡の八幡宮に詣ず。むかし旅のほうしに軍談させ、其勞にかへて、白かねの猫たまいりしを門前のわらはに打やりてさりぬと、此やしろにてのことなり。玉垣の外左右の池蓮今を盛なり。

   猫の目や蓮の實に化(ばけ)絲に化

      戀情篇 第三

むかし男まどひいきて、八橋のほとり、杜若をながめて、例のほとびたるものすゝめし折ふし、かの句の上や出けん。其何と見まゝほしけれと、竹齋が田ばかりにて、はしのかたもなく、むかしと今と、道もかはりたるらむ、いづこしるしもなし。近き里に菴室有。前に池をほりて、杜若をうへたり。いにしへのあとをしたへるにや。

   一すしの道をもへだつかきつばた何八はしの名にながるらむ

      哀傷篇 第四

明日知らぬ我身とおもへと、けふは人のかなしきをきくに、かけてねになく時鳥は、死出の田をさをもよほしがほなり。番場の辻堂には、越後守仲時七十餘人枕ならべし過去帳殘り、山中といふ里に、常盤御前のむなしき跡とて、崩かゝる石塔は、美目よしともの妻の古塚と、ある人のよまるも哀れなりし。

佐夜の中山長山ともいへり。よべは日坂にとまる。茶にうかされてや、目のあはで、夜ふりにたつ。中山なかなか明むけしきもなし。無間の鐘膓にうごけば、こゝら鬼あざみやくらはむと、足のうらこそばし。四方なる石にさぐりあたり、人がほ見ゆるまでと、尻かけてまどろむ。馬の鈴にをどろかされぬ。

   寢力の火串(ほぐし)も逃つ佐夜の中山

此先の谷陰菊川と云所にて、承久の比身をうき島と讀て柱に歌を申殘せしむかしをおもひ出て家々をながめて過く。

   かはる世や柱に蠅のはしり墨

歐陽が爾が生をなげくといへども、此あはれを知りたるにやとひとりごちす。大井川はおそろしき渡りにて、いくばくの人や取けむ。玉祭る比は島田金谷の尼小法師あまたの火ともして、をくりむかへするよし、旅のあはれもうちそひ侍る。

鎌倉はそのかみ武士のうき沈みのある所とぞ。由比の濱にておゝくの人身をほろぼす。其さま見に行たるに、眞砂はるはると白きにうすあかき皷子花(ひるがほ)の咲みだれてあはれなり。誰とともに往時を語らむ。日の申に過るほど、俄に風波あらくたちて、衣の裾を吹あげける。

   あの波のさけぶ下にも夏の月

      雜篇 第五

旅の十躰を作れる。ひとり旅よりはじめて、高位の旅泊にをばる。今の五篇もれざるべし。A href="http://book.geocities.jp/urawa0328/gifu/fuwanoseki.html">不破の關屋のあと、大關と云里に宿す。窓より覗けば、さらめく月の若葉に匂ひ、螢眞葛の玉と亂る。夏夜の興にかどはされて、柴垣のもとうそふきわたり、分夜の鐘に歸りふす。

   はな歌も月も蚊屋もる關屋哉

岡崎を出る日、大雨ふる。着なれぬ物袖はありやなしや、唯旅のうきものは雨なり。いつやらの會にふれとぞ思ふ旅の雨と云句出て、人々此五文字すへかねしをせめて夜とそ賦にける。

ゆきゆきて、月の清見潟に枕を柱(さゝ)ふ。阿佛尼のなまぐさきめにあへるも此浦の旅寢ならむ。明れば空晴て不二なを白し。こむじやうをぬりたるやうなるに、雪の消る世もなく積りたれば、色こき紺(※「糸」+「旨」)にしろきあこめきたらむやうに見ゆと、更級記にも書り。

水無月の中比鎌くらより武江に歸り、深川に殘暑を凌ぎ、仲秋におよびて、送れる月の影をたのみ、常州稲田の靈蹤を拜し、こゝかしこ見めぐるうき雲の風にたゞよふ身の、冬日又ふか川にかへりてとし暮ぬ。

      雜篇 常陸

己丑の秋むさし野を出て、常陸に越へ、ふたゝび稲田に趣く。こぞの八月かのあたりは尋ね侍れど、なを見殘したる聖跡のなつかしく、またこゆべき命かはと思ひたつ、水戸を去て野徑山路八里、笠間のにし一里有、筑波山加波山は南につらなり、わが國山はひがしにたてり。

羽黒のにし三里ばかり小栗の里有。是よりひがしにむかふ。眞佛の舊房は上高田と云。山崎川を渡りて、やがて専修寺に入る。惣門の奥、山門をかまふ。向に如來堂彩色精麗なり。善光寺の如來高祖の夢中にたまふ三尊のよし。北に釋迦涅槃堂、まへに本堂有。庭前に高祖御楊子の柳、森かげに御腰掛の石ぞと人のかたる。

   白馬紀行 義

知人有てあないさせ、鹿島に參社す。太神宮は布都主(ふつぬし)の尊とかや。東夷征伐のため下り給ふ。高間はらはむかしの陣所なり。松の林一里ばかりにて、此島扇を開けるやうなり。森陰に要石有。地を出て二尺ばかり、面一尺あまりもあらむ。丸きこと卵のことし。鯰(※「魚」+「夷」)のかしらを貫くと、事觸の妄誕聞にたらず。太神宮腰をかけて軍配し給ふ石なりと、神職のいへるむべなり。神寶の常陸帶は、幾重も筥に納む。上古の記録ならむか。神秘にて知る人なし。俊頼の説に、祭禮のとき神職寶前につどひ、男女の帶をとりかへてえんを結ぶゆへ此名ありと、長明がいへるも同事なり。

   常陸帶はづれなつかし下(さがり)

      雜篇 越後

ふづき葉づきをかけて所々巡禮し、武城にかへる。高祖越後の配所にまふでたくねがひしきりなり。仲秋の末むさし野を出づ。長途の行脚いと心細し。道祖守夜の二神に身をまかせるもおかし。信濃路近く侍れど、風雅に迹を染る白川の關、折からの秋風笠にふれ、會津根の萩すゝきを分て、はし鷹の鳥屋野(とやの)に出むこゝろなり。旅だつはじめ幸手(さちて)にとまる。次の日小山を通る。慈覺大師降誕の地なつかしく、室の八島も見まくほしさに、壬生の莊園にたちよる。台林寺に入り、大師を禮す。わがたつ杣の座主をうがせ給へる紫雲のむかしいとたうとし。

近ければむろのやしまに行。此御神は木の花さくや姫にて、富士權現一體なりと。又三輪の明神同體の説も有。本社のまへ泉澤清くたゝへ、水色烟をこむ。中に八の島おのおのたてり。古人の烟を詠ぜるになを叶はざるもあるにや、このしろ(※「魚」+「祭」)と云ふ魚をいめること縁起に見ゆ。

   士岳輪山共一壇   烟雲相望路漫々

   無窮景色争吟得   室八島頭叉手看

此あたり花見の岡とて、池のかたちあり。むかし大蛇住るを、高祖念誦し給ひ苦道のがれたるよし、此ごろの筆どもにことことしく記す。神職にとへば、さることしらじと云。虚實をぼつかなし。日光山に詣ず。日のもとにかくれなし 當山の來由は、羅山が賦にくはし。元は二荒山と云、寶殿の嚴麗、本地の瑠璃光世界の現するにや、ばせを此山にてあらたうと水葉若葉の日の光りといへり。その若葉をつたひ來て、

   鎌いれぬ紅葉たふとし日の光

黒髪山は雲に聳ゆ。遍照が我黒髪といひし、此山の名におもひあはせ、たらちねの御めぐみのほどいととうとく覺ゆ。末の日數の重るを厭ひて、中禪寺はるかに見てすぐ。これより那須野をすく、山陰に殺生石有、石まろび出て害をなさず、おろかなる蟲螻(けら)のをのれ飛かゝりて、をのれを殺す。自業あはれを催し侍る。蘆野の里に清水ながる。柳を見、下野奥州の界に入る。住吉玉津島の神祠をたつ。白川二所の明神とまうすなり。南は壽寶山北は和光山、おのおの額を掲ぐ。昔の關は大田原の北、旗宿と云ふ所なり。關山のぼること十七八町ばかり、嶺に滿願寺とて、聖武帝の勅願所有、能因は秋風ぞ吹とながめ、頼政は紅葉散しくと讀り。春秋の季をふくみ、青葉紅葉の色をまじゆ。殊勝の姿なり。衣の袖の塵打拂ひて通る。

   目白ほじろ關の白髪も吹かれ行

竹田の大夫此關を過る日、いかで、かけなりにてはすぎむと、裝束をあらためける。淺からざる心ざしにや、阿武隈川を渡りて、左の山中勢至堂にとまる。

出雲崎は、佐渡にかよふ舟戸とかや、國外にこゝろ急ぎて、笠の端の右に見て過ぐ。かめわり坂をのぼりて、上輪の清水を汲む。草ふかきあはれ義經記を讀む心地す。米山三十里西濱四十里、中柿崎有。淨福寺にたちより、九字の名號を拜す。

直江の浦いまは今町と云。安國山國分寺ほどちかし。五智の如來を禮す。抑當山は聖武帝の勅願にて、六十餘州に國分寺を建給ふ。そのひとつなりと、堂をめくつて、山有海有。

   秋とても佐渡の弦藻(つるも)をこがね花

別當の坊の奥、祖師堂有。開扉望みて拜す。四十歳ばかりの尊容いとたふとし。寺の正面を坂本と云。右に愛宕山、左に法場村、茅屋軒をつたひ行。さきに築山などの岡御庵室の跡なりと。まへに水草清き澤有。折ふしの秋のけしき心なき身にも哀れのみぞおほかる。予か心冥慮にかなひ、此遐境をとひたてまつる。またいつかはと思ふ泪に、立歸り立歸り數刻うつる。

   月に泣くそれがこぼれて芝手水

此ゆふべ高田瑞泉寺を尋ねて、院主にたい面し、終夜むかし今をかたる。晨の鐘におどろかされて又笠をさげて出、關山を越て信濃路なり。おしかねあひの木を過て、善光寺に詣ず。夫當寺は如來有縁の靈地、南は千曲才川の二河遠く見晴し、西は朝日山、北に大峰、東に横山立て、七寶の林かげをうかぶ。殊勝の精藍にて、寺家數百有。僧侶は内陣衆妻戸衆など三階四十五人にわかてり。大峰を北にむかひて、如來堂に入

   此鐘やうはき男鹿の鎮魂(たましづめ)

葛山往生寺不斷念佛の堂を禮す。今宵の草枕はさきほどに約しをく。その所に歸り、草鞋をの紐とき、足盥にかゝりたれば、撞鐘のおとして、如來の開帳と人々走り出。ありがたくおぼえて、予もふたゝび詣ず。家に十三四のをのわらのあるを具して行たり。名をとへば牛之介と云。うしにひかれて善光寺まいりの諺ふとおもひ出、よそごとにはあらじといとたふとく覺え侍る。舟波島追分何となく過ぬ。むかふに更科姨捨山立たてり。谷より大河二筋ながれ布野のあたりにて落合、いみじく曇りなき風景、月の佳賞まことにゆへ有。山月には更科姨捨にて足りぬと順徳院かゝせたまふ。今詩歌だになくて口惜し。姨が岩、姪が岩とて見つゝ通る。川中島の古戦場を見、上田小諸を過て、淺間が嶽なり。信濃はきはめて風はやき所にて、諏訪の社に風の祝(はふり)と云ものを置いてのりごとせるよし、なを此山は風はげしくて、烟の横をれ行さまいとはかなし。碓氷坂をあへぎ登り、嶺(とうげ)笠敷て休ふ。妹が戀しくわすられぬとよめるも吾妻とよび給ひしむかしやおもへる。松本に下り、妙義山を見、熊谷をとをるとて、法力房の古寺を禮し、信不退の御座をおもひ出。爰かしこ、巡禮し、九月中旬武江に歸る。

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