俳 人
下郷蝶羅
下郷家本家(千代倉屋)
享保8年(1723年)、下郷蝶羽の十四男として生まれる。
寛保3年(1743年)、東国紀行『蝉衣』。
宝暦8年(1758年)7月27日、大島蓼太は吉野行脚の途上千代倉家を訪れ、蝶羅に会っている。
七月廿七日 快晴残暑強 夕方江戸通り塩町、雪中庵蓼太と申点者、推□今夕留ル。夜ニ入猶水、亀章、亀洞、蝶羅、自分一順有。嵐雪翁道統のよし。
『千代倉家日記抄』
明和6年(1769年)4月15日、田中千梅は江戸深川で没。享年84歳。
明和8年(1771年)4月9日、諸九尼は下郷蝶羅を訪ねている。
千代倉氏を尋ぬ。此あるじは代々風雅の心ざしを続て久し。むかし芭蕉の翁も爰に杖をやすめ給ひ、旅の調度の笈をのこし置給ふをみる、その様よのつねの笈にはあらで、手箱とも思はれ侍る。かのうら嶋が玉手箱にハことかはり、あけてなつかしきいにしへの文ども多くこめられたり。
明和8年(1771年)4月、木兎坊風石は奥羽行脚の途上蝶羅の家に泊っている。
鳴海なる蝶羅子にやとる
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星崎を問へは卯の花曇りけり
| 木兎
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安永2年(1773年)10月、蝶羅は「春雨塚」建立。
此御寺の縁起人の
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かたるを聞侍りて
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| 芭蕉翁
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笠寺やもらぬ岩屋も春の雨
| 桃青
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旅寢を起す花の鐘撞
| 知足
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かさ寺や夕日こほるゝ晴しくれ
| 素堂
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大悲のこのは鰭となる池
| 蝶羽
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安永5年(1776年)5月6日、54歳で没。
蝶羅の句
稲妻のまたかたまらぬ螢哉
混沌と子細らしくも若菜かな
春の夜を買尽したる牡丹哉
名月や江戸から見ても富士の雪
よしや君よしや君とて枯野哉
松はら庵の賀
七種に先自在なる庵主かも
梅咲やたしか五山の小僧たち
片枝は雨片枝は柳哉
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筏士の頤長し今朝の霜
梅さくや宮様領の水の味
むらむらと深山桜にのぼり哉
鶯や外科とも見へす竹格子
さうぶ湯のあとはさゝ湯の節句哉
八景を十にも見せつ晴しくれ
高 館
只今たゝ山と川のみ諌鼓鳥
一夜一夜月も細りて鹿の声
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