蕉 門

中川乙由

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 伊勢山田の人。通称喜右衛門。材木商。慶徳図書と号した。別号梅我、麦林舎。

乙由 伊勢川崎生レ、家富、寶、利事ヲ不知、慶徳圖書、伊勢山田社司、性名ヲ變ジテ中川梅我ト云、乙由ト改ム。麥畑庵ヲ卜テ麥林舎ト云、元文四己未八月十八日卒、世の知る所故事略ス。

『蕉門諸生全伝』(遠藤曰人稿)

 元禄3年(1690年)春、芭蕉が伊勢に来遊した時に入門。後、岩田涼菟に師事する。

浜の地蔵を訪れたようである。

麦林句碑


浜の地蔵とて絶景の地有。いつれの春にやはせを翁もしら魚の一句を此堂の柱に残されたりとかや。われも此秋此佳境にたたずみて、

蛤の宮殿見たり霧の海

 元禄11年(1698年)5月、岩田涼莵は伊勢を立ち江戸に向かう。乙由は餞別の句を詠んでいる。

水鶏にもぬかりはあらじ旅の宿


 元禄16年(1703年)秋、岩田涼菟は中川乙由を伴い、山中温泉に遊ぶ。

 享保2年(1717年)4月28日、涼菟没。享年59歳。

   凉菟を悼

何鳥の此跡啼ぞほとゝぎす


 享保10年(1725年)、千代女は京の東本願寺に参詣。中川乙由を訪ね入門。

   対加陽千代女
  麦林
国の名の笠に芳ばし花の雪

とを(ほ)き日影も水ぬるむころ
   千代


 享保10年(1725年)9月30日、木因は80歳で没。

   木因を尋しに、此ほど身まかり
   けるとかや。

名木の跡へ廻るや一しぐれ

かぞへては足らぬを啼や友ちどり


 享保16年(1731年)2月7日、蓮二坊は67歳で没。

   蓮二坊を悼

月雪を見尽す春や梅の痩


 享保17年(1732年)、京都で千代尼に逢う。

   加賀の千代女に洛にめぐり逢て

九重を一重で歩行(ありく)小百合かな


元文4年(1739年)8月18日、没。

子の麦浪が『麦林集』を刊行。

門人に佐久間柳居がいる。

   麦林翁悼

木の実にも驚く風の便かな


寛延3年(1750年)、幾暁は金沢で師麦林(乙由)の十三回忌法会興行。

寛延4年(1751年)、俳諧百合野集』(幾暁編)刊。希因序。

 『東都古墳志』によれば、長慶寺に芭蕉翁句塚、宝晋斎其角墓の他「玄峰嵐雪居士」、「麦林舎乙由居士」、「守黒菴眠柳居士」、「松籟庵太無居士」、「二世松籟庵霜後居士」の6基が建てられたとある。

前橋市の正幸寺に乙由の句碑がある。



祖父祖母の孫にもあまき十夜哉

安永8年(1779年)冬、喝祖坊素輪建立。

榛名山番所跡の松露庵句碑に乙由の句が刻まれている



山吹や水に流れてめとの影

乙由の句

   儡傀(ママ)

うかれめにとりまかれたるこたつかな

階子田をちからに霧の峠かな


仙人に成か湯入の髭の露

本文の草も錦もなかりけり


くわいと鳴別れも有や猫の戀


夕涼み夕顔ひとつ見付たり


象潟やどこへ帰帆の雁の声


よい物を笑ひ出したり山桜


わかな摘し跡や雪間の七所


頓て染る山を晒すやけふの月


やかて染る山をさらすやけふの月


かんこ鳥我もさひしひか飛て行


かんこ鳥我も淋しいか飛て行


夕涼ゆふ顔ひとつ見付たり


どう響く涅槃の暮の鐘の声


ゐのしゝの田夫に荒す紅葉かな


夕顔の花に不形ハなかりけり


福わらに田ごの春ぞおもはるゝ


十八丁おくに里あり梅の花


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