田中千梅

『松島紀行』(若葉の奥)

indexにもどる

 元文3年(1738年)4月12日、田中千梅は江戸を発し日光那須松島等を遊歴し、5月10日、家に帰る。

      松嶌紀行
方鏡樓 千梅述

時は元文三とせにや卯の花月も中の二日まつ日光の御神事拝せんと心さしあハよくハ白川の関をも越んと祇翁の名取集先師の奥乃紀行旅硯ひとつなん袋に押込深川の市中を出る

三人引離れ行バ各影見ゆるまて見送りて分れぬ今夜ハ越ケ谷の宿にやとる

4月12日、越ケ谷泊

利根の渡り 栗橋川也 こへ行ば早下野の國也都賀郡乙女村おもひ川なんといふなまめきたる名にていか成謂にや

古河の城を過り日も山の端にちかけれハ侭田の宿に泊りぬ

4月13日、間々田泊

明れハ十四日小山の宿に入小山の判官代々乃旧地也古城の跡ハ町の西にあり

知らぬ野原をさしこへぬ今間四里余入夜に宇都宮に着同氏かもとをやとりとす思ひかけぬと悦ひもてなす事大かたならす

4月14日、宇都宮泊

宇都宮大明神に詣す或抄に宇都宮ハ日光権現の別宮と云り正一位勲一等日光大明神の額あり

4月15日、宇都宮逗留

十六日宮を立て日光山に詣す同氏も道の案内せんと共に旅立徳次郎畧シテトクジラト云大沢なんと云里を過ク

日光山の麓鉢石に急古橋氏を主とす則浴(ユアミ)(クチスゝキ)して先拜詣す大谷川前に渡る橋ふたつ並ひ立寄に山菅と讀道の上なるは神橋と称して行桁欄干渡り板大に彩色金物きらひやか也下の橋を渡りて御山に登まつ御本坊乃門前をつたひ登れは石の大鳥居元和四年四月十七日黒田長政ノ主寄進筑前石也とそ南海を巡らして此御山に献セられしよし銘文に見ゆ酒井讃岐守建立の五層の塔華表の内にあり

4月16日、日光

十七日御祭礼拝見

三社権現拝ミめくりぬ延喜式神名帳に下野國二荒山之神社とあり本宮豊城入彦命新宮大己貴命瀧ノ尾田心姫命是ハ御日光山三所大権現也瀧の尾ハ遙の山上に立給ふ

4月17日、日光

十八日御山を出て今市の驛より同氏に別れて奥州路にかゝる左に宇都宮に歸りて奥道に趣くハ本道なれと今行程九里余遠けれハ是より直に大田原に越んとす

黒髪山後に見なし行先遙に山も見へす原野渺茫として一鳥不(ハウタ)平沙万里人煙絶ゆか遠く武江の方を望めは纔に筑波山かすかすと見ゆる

   振むけは笠につくはや雲の峰

日暮大田原にたとり着ぬ此間十二里ほと宿かさんと云を幸に泊る

4月18日、大田原

山に登り又谷にくたりて温泉あり温泉宮に詣す

与市の的射し時那須ハ温泉大明神別してハ氏の神正八幡大菩薩と心願せしとかや物語にハ書き傳へぬる感應最モ浅からさりけらし

   神の名も扇に高し桐の花

日も傾きぬれハ宿を求て温泉に浴すあるし案内して殺生石を教ゆ石の毒氣いまた亡(ほろ)ひす蝶蜂の類真砂の色乃見へぬほとかさなり死す

4月19日、那須湯本

猶行ほとに境明神を拜し白川に至れは奥州の地に足を入関東乃明神奥の明神両社や関東之明神ハ宝壽山奥之明神ハ和光山共ニ黄檗高泉和尚額也

けふ白川の関山こゆる日なれハ古人冠を正し衣装を改し例に慣(ナラ)ひ鬢つけ襟かき合て年来乃風流今日にありと

そも此関ハ三關のひとつ也とかや不破相坂をあハせて三關といへるにや人皇三十七代孝徳天皇乃御宇にはしめて爰に關をおかれて日本関の最初也と云り世々詩歌連歌俳の人今古風を慕ハすと云事なし

関山高々と茂観自在王立せ給ふ茨卯の花散乱れて時ならぬ雪を拂ふ

道左に分れ右に岩城相馬三春の庄常陸下野の地をさかひて山列る山河万里の國風土誠に廣遠也此夜は矢吹の駅に宿す

4月20日、矢吹

影沼の里ハおもひを影にうつし見ると云傳へぬる旅つかれの影はつかし

安積山あさかの沼を見る

此邊総て沼多し片葉の葭とて一方へはかり付たる葭あり葭と芦と乃説又文明ならす

4月21日、二本松

二本松に寓り明てハ黒塚の窟(イワヤ)尋ぬ

今石毎に観音の像を彫て傍に一宇を建聖武皇帝の御宇神亀三年那智之東光坊阿闍梨祐慶悪鬼降伏の後これを建となん

是より文知摺石を尋ねてしのふ摺文知摺といひいひ行ば五十邊(イガラベ)と云里の半に石碑を立て其道を教ゆ山口の里と聞て分入ほとに毛知須利の観音立給ふ其前に長壹丈三四尺横八九尺はかり成石なかば土に埋れて苔ふりたり昔はうへ成山際に立てりしか旅人の群来て此石を心見るに麦艸を荒しぬるを悪て山よりつきおとしたれハ石の面下ざまに成て臥たりしとやさも有ぬへし

遙に山陰の茂を目かけ行其間東西南北目の及ふ所皆田也流石の國にこそかゝる郊甸ハあれとつくつく見渡されぬ折節うへ田の最中なり

   伊達信夫笠を並へて田植かな

佐場野に着瑠璃光山醫王寺に詣す

又奥ある杉陰に薬師如來を安置し其傍に庄司一家の石碑を殘す

うへの山ハ大鳥の城庄司代々の居城也本丸二之丸大門の跡とて教ゆ丸山ハ勢揃の場とそ

桑折の駅に寓

4月22日、桑折

藤田の驛を過山乃麓に義經の腰掛松辨慶か硯石とて教ゆ

國見山弓手に仰き伊達の大木戸越ゆ

東路のはるけき道を行めくりいつかとくへきと讀みし下紐の関も此邊にや厚加志山を過き鞍割坂鐙摺なといふ難所を喘(アヘキ)付く

坂を半くたりて草堂に婦人の甲冑したる二像を立或抄に甲冑堂と號ス里人は小姓堂といふ佐藤兄弟か室女乃像成よし

此夜は岩沼の宿にやとる

4月23日、岩沼

明れハ武隈の松を見る

   夏知らし此松陰の一在所

武隈乃明神額に竹駒大明神と書ス文字乃違其謂ある事にこそ

   己か聲にをのれも淋しかんこ鳥

山つたひして名取の老女勧請の熊野権現に詣す國寺の寄附共ありて瑞籬(ミツカキ)拜殿鮮麗也三社権現の傍に老女の宮ありみちのくにありと聞なる名取を下につたひ海道に出廣瀬をわたり仙臺に入日ハいまた未なれとやとりを求て憩(イコウ)

4月24日、仙台

是乃釈迦堂に詣て臺より後を見わたせは宮城野の萩茂りあひて秋の氣色おもひやとる原の町今市と云里を行けは奥乃細道所之者ハ吾妻海道ト云古道也山陰に轟の橋を渡十符の菅を尋ねて山際を左に草むらの中を分入離れ家の後に昔の跡失ハす菅沼ありて験(シルシ)をたつ今も國乃守へ菅薦を編て捧となん

市川村に名高き壷の碑を見る千歳の記念(カタミ)比類なきもの也

或ハ苔埋て文字さたかならす書写の誤なきふしもあらす

      壷之碑

 去京一千五百里
 去蝦夷国界一百二十里
多賀城
 去常陸国界四百十二里
 去下野国界二百七十四里
 去靺鞨國界三千里

此城神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守將軍
從四位上勲四等大野朝臣東人之所置也
天平宝字六年歳次壬寅參儀東海東山節度使
從四位上仁部省郷兼按察使鎮守將軍
藤原恵美朝臣朝狩修造也(※「狩」は獣偏に「葛」)

              天平宝字六年十二月一日

石之高六尺五分幅二尺六寸四分厚一尺五寸自然石の面はかりを削て彫(ヱ)たる也

是より末の松山沖の石を尋て分入ほとに行先まきれ道多耕し人に教られて多賀城にハ纔に一里餘八幡村と聞て行とも行とも松山も見へす

誠に紛れなき旧跡を見る感慨最時をうつしぬそも此名ところハ沖の井で身をやくよりも悲しきは都嶋へのわかれ也けりと讀る本名澳の井也とかや

野田の玉川紅葉山おもはくの橋を見る西上人陸奥の記にふりたるたな橋を紅葉の埋たれハ渡わつらひて人に尋るにおもハくの橋申なん是也といへハふまゝうき紅葉の錦ちり敷て人もかよハぬおもハくの橋

猶たとり行ほと塩竃の浦に着日ハ午なりまつ大明神に詣す正一位一ノ宮塩竃大明神乃額ハ佐玄龍筆

江上に小舩さして松嶋に渡ル其間弐里余

こかね花咲と讀て奉し金花山紺青乃波上に浮ひて南部山北につらなる浮雲遊子の意落日故人の情日ハはや山の端に傾ぬ

  送 友 人
         李 白

青 山  北 郭
   白 水 遶 東 城
此 地 一 爲 別
   孤 蓬 萬 里 征
浮 雲 遊 子 意
   落 日 故 人 情
揮 手 自 茲 去
   蕭 蕭 班 馬 鳴

(トクリ)ハこけて舩ハ雄嶋の磯に着ぬ

舩をあかりて瑞巌寺に詣す松嶋山瑞巌圓福禅林と称す真壁の平四郎出家し法心和尚入唐歸朝の後開山す其后(ノチ)遙乃年ありて雲居禅師の徳化によつて國寺政宗ノ主再興せられて門廡瓦を磨き堂宇金銀を鏤奥州一乃大伽藍也

自然石の面に遠經山風月圓福大道場法身透得無一物元是真壁之平四郎と彫記す

遠上經山分風月
   遠く經山に上て風月を分つ
帰開圓満大道場
   帰て圓福大道場を開く
法身透得無一物
   法身透得無一物
元是真壁之平四郎
   元是真壁の平四郎

 「經山」は「徑山」が正しい。法身禅師は宋に渡って径山寺の無準禅師に学び、帰国して臨済宗円福寺を創建した。

江上の餘波尽ぬ物から引入事も打忘れて窓前に手を打急て臥ぬ

   蓬莱に寝て短夜ハ無念也

松島

明朝立まほしなから雄嶋の舎(ヤトリ)ヲ出て緒絶(ヲダヘ)乃橋あねハ乃見はやと平泉に志す

卯の花月も漸(ヤゝ)皐月ちかく降つゝくほとに只水雲の中をたとりて石の巻乃湊もそこはか行過金花山まちかくて海上に見わたし袖の渡り尾駮(ヲブチ)の牧真野の萱原も降来る

高館の大門といふ一ノ関ニ至此間二日程白き真砂を蹈或ハはてしなき長沼にそひて路心ほそし平泉に泊る

平泉

明朝少晴わたりて高館に登名におふ城郭は皆田野と成て金鶏山のミ其跡を残す北上川ハ目さむる大河也衣川和泉か城衣の関砌にちかし

中尊寺ハ慈覺大師乃開基也とかや秀衡是を再興す堂下に三代の棺(ヒツキ)を納とそ

經堂にハ三将の像を殘し秀衡太刀義經切腹乃九寸五分を宝物とす

   名や代々に樗の花のひかり堂

衣川の中乃瀬ハ弁慶立往生の場也と云

道の邊達谷(タツコク)の窟(イワヤ)とておそろしき岩洞に坂の上乃田村凡大同年中の建立といふ多聞天乃堂遠拜して過猶行程に栗原沢邊村にあねはの松を見る

高野築館高清水と云里々を過古川に緒絶乃橋を渡る

   千歳乃苔見る橋の下涼し

小町塚を尋て夜鳥の里にかゝる彼髑髏乃悲(アナメ)々の歌讀し所也とそ

夏草茂る中を分て塚上に登る

   此塚に咲かは何てもの美人草

原の町より又宮城野を分て木乃下薬師に詣す称国分寺古今集に御侍みかさと申せと讀し所也

   常燈も蛍も夜のちからかな

仙臺に歸岡の神社大崎八幡所々一見して寓

真一文字に宇都宮馳着其間七日路也

是より安久津の下石井と云よりきぬ川筋にをふねさしくたりて瞬(マタゝキ)乃内におざかたと云に着七里余景色最いさきよし舩をあかり筑波山側に見なし下妻宗道境關宿を經て粕壁に出十日武江に歸る



   各題奥之名所

玉川の塵や千鳥の巣こしらへ
   麦阿

   題土産名物
  
笠嶋ハ笠脱打て不如帰
   冨鈴

   追加

   方鏡樓子松嶋よりかへり給へると聞て
 猩々庵
すいかつら散や雲居の手水鉢
   原松

俳 書のトップページへ