俳 人

知足坊一瓢
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『物見塚記』 ・ 俳諧西歌仙』

一瓢の句

本行寺二十世日桓上人の俳号。別号知足坊、雲耕庵。

一瓢   筥根玉沢 妙法花寺知足上人


文化初年、本行寺の住職となった。

本行寺は景勝の地であったことから、通称「月見寺」ともよばれていた。

月見寺(本行寺)


 戦国時代に太田道灌が斥候台を築いたと伝える道灌物見塚があったが、現在は寛延3年(1750年)建碑の道灌丘碑のみ残る。

荒川区教育委員会

道灌丘碑


 文化2年(1805年)、一瓢は猿ヶ島の丈水を訪ねたが会えなかった。

   猿が島丈水を訪に不逢

留守の戸も只には置ぬ木の実哉


 文化5年(1808年)3月20日、小林一茶は物見塚を詠んでいる。

   本行寺道くわん物見塚

(おほよそ)に三百年の菫かな

『花見の記』

 文化6年(1809年)、夏目成美は弟庄右衛の二十七回忌で本行寺の一瓢を招請した。

 成美老人亡弟ことし弐十七の祥忌とて、葛飾の草庵に懇請せられ、法華一卷を手向て其日の首客なれば追善のほ句せよと望まれたり。

   あの世まで団扇の届け蓮のめし


 文化7年(1810年)9月14日、今泉恒丸は60歳で没。

   南無徳一居士嗚呼ひとあしおくれたり

わが骨もやがてなぐさめ枯尾花
一瓢

『玉笹集』

 文化8年(1808年)、一瓢は『物見塚記』を出版、その遺跡を顕彰したそうだ。

本行寺に一茶の句碑がある。

一茶の句碑


陽炎や道潅どのの物見塚

文化8年1月29日の句である。

   廿九日 巳刻ヨリ雨止。本行寺ニ入ル

陽炎[や]道灌どのゝ物見塚

『七番日記』(文化8年正月)

   正月廿九日 於本行寺会

陽炎や道潅どのゝ物見塚
   一茶

菜の花と知りつゝ呑や釣瓶から
   一瓢

むつましや生れ替らば野べの蝶
   一茶


本行寺に一瓢の句碑がある。

一茶留錫の處


刀禰の帆が寝ても見ゆるぞ青田原
   一茶

菜の花としりつゝのむやつるべから
   一瓢

夕空や蚊が鳴出してうつくしき

『七番日記』(文化8年3月)

 文化8年(1808年)5月4日、一茶は一瓢と歌仙を巻く。

   五月四日 於雪耕庵

夕暮や蚊が啼き出してうつくしき
   一茶

   すゞしいものは赤いてうちん
   一瓢

『物見塚記』

雪耕庵は一瓢の庵号

 文化9年(1812年)2月18日、一茶は本行寺に入る。

   十八 晴 南吹 昼雷 氷降小雨 本行寺入

『七番日記』(文化9年2月)

   十八日本行寺

陽炎や貝むく奴がうしろから


20日、一瓢は中村座に行く。一茶は松井に入る。

   廿 晴 一瓢上人中村坐(座)覧 松[井]ニ入

『七番日記』(文化9年2月)

 文化9年(1812年)、一瓢は秋香庵を訪れた。

 11月3日夜、一茶は本行寺に入る。5日、竹里に会う。「又虚言ス」とある。

   三 晴 夜本行寺ニ入 雷雨
   五 晴 竹里ニ相見 又虚言ス

『七番日記』(文化9年11月)

一茶は竹里に面白くない感情をいだいていたようだ。

竹里は越後の俳人。苅部五兵衛。

 文化10年(1813年)正月、菩提寺明専寺住職の調停で異母弟仙六との間の遺産問題が解決して、故郷柏原に定住する。

 文化11年(1814年)7月22日、一茶は柏原を発ち、8月9日に江戸に着いて本行寺に入る。10日日本橋久松町の商人松井、11日浅草蔵前の札差成美、12日、13日松井、そして14日再び本行寺へ。

   九 晴 谷中 本行寺入
   十 晴 松井入
   十一 雨 随斎ニ入
   十二 雨 松井ニ入
   十三 雨 仝所ニ入
   十四 晴 本行寺
   十五 晴 仝所ニ入

木母(もくぼ)寺は吐反(反吐)だらけ也けふの月

『七番日記』(文化11年8月)

11月3日、一茶は成美宅で半歌仙を巻く。

   三 晴 於随斎三吟半歌仙

『七番日記』(文化11年11月)

石の上の住居のこゝろせはしさよ

雪ちるやきのふは見えぬ借家札
   一茶

   楢に雀の寒き足音
   成美

鍋ひとつ其日其日がうれしくてかな
   一瓢

   たもとかざせば晴るる夕雲かな
   諫圃

諫圃は成美息。

11月23日、一瓢は市村坐見物。一茶は松井に帰る。

   廿三 晴 一瓢上人市村坐(座)見物 留守 松井ニ帰

『七番日記』(文化11年11月)

 文化12年(1815年)、『玉山人家集』

 文化13年(1816年)、俳諧西歌仙』(一瓢編)刊。

 文化13年(1816年)10月1日、一茶は長久山本行寺に入る。

   一 晴 谷中長久山ニ入

『七番日記』(文化13年10月)

 文化14年(1817年)1月29日、一茶は長久山本行寺に入る。

   [廿]九 晴 入長久山

『七番日記』(文化14年正月)

同年2月1日、一茶は一瓢から金百疋を得た。

   一 晴 金百疋一瓢ヨリ得 ユ島芝居一見 松井ニ入

『七番日記』(文化14年2月)

一茶と一瓢の最後の別れである。

2月8日、一瓢は伊豆玉沢の妙法華寺に移る。


   伊豆

乙鳥(つばくら)の来て口上の長さかな   一瓢


三日月に挟まれまいと舞う雲雀

はつ空を狭しと鴦の輪とりかな

同年7月4日、一茶は柏原に帰る。

それ以来、一茶が江戸に出てくることはなかった。

 文政9年(1826年)3月、『杉間集』刊。配本扣に「伊豆 玉沢 妙法花寺 一瓢上人」とある。

田川鳳郎は玉沢に一瓢上人を訪ねている。

    玉澤に一瓢上人を訪ふ。廿とせ
    ばかりの昔がたり盡べきにあら
    ず。かたみにまめやかなるを悦
    ぶのみ。將、諸堂の破惶をあら
    ためて、再建の大願、きゝしに
    倍せる火功に眼を驚かす。

鶯も並々ならず雲に聲


天保10年(1839年)、江戸に帰る。

天保11年(1840年)7月7日、一瓢は本行寺で遷化。享年70歳。

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