俳 人
秋元双樹
五代目秋元三左衛門。醸造業を営み、味醂開発者のひとりと言われる。
千葉県流山市に一茶双樹記念館がある。
一茶双樹記念館
小林一茶寄寓の地
流山市指定記念物第一号
江戸時代の俳人小林一茶(1763〜1827)は、人生の多くを旅に過ごした。中でも流山を含む下総地方は最もよく訪れており、その地の俳友達に俳句を指導したり、情報を交換したりして、生活の糧を得ていた。
流山で一茶と親交が篤かったのは、醸造業を営み、味醂(みりん)の開発者のひとりと言われる五代目秋元三左衛門である。三左衛門(1757〜1812)は双樹と号し、家業の一方俳句をたしなみ、経済的にも一茶を援助していた。一茶は享和3年(1803年)から文化14年(1817年)の15年間に50回以上も流山に来たことが句帖や日記からわかっている。一茶と双樹の関係は、俳人と商家の大旦那というだけでなく、真の友人であったことがしのばれる。
流山市教育委員会では、この地を一茶と双樹が親交を深めた、流山市にとって由緒ある土地として、平成2年12月4日付けで流山市指定記念物(史跡)第一号に指定し、一茶双樹記念館として整備した。安政期の建物を解体修理した双樹亭、枯山水の庭園、流山で味醂の生産が最も盛んであった時代を再現し、展示を行う秋元本家、茶会、句会などに利用できる一茶庵がある。
流山市教育委員会
享和3年(1803年)4月16日、一茶は我孫子から野田を過ぎて流山に入る。
十六日 晴 我孫子より北へ入、野田を過ぎて流山に入。
『享和句帖』(享和3年)
一茶が流山を訪れた最初の記録である。
双樹47歳、一茶41歳の年である。
文化元年(1816年)5月10日、一茶は流山に入る。
十日 朝曇 晴 流山ニ入 夜雨
刀禰川は寝ても見ゆるぞ夏木立
『文化句帖』(文化元年5月)
『文政句帖』(文政7年6月)に「本行寺泊」と前書きし、「刀禰の帆が寝ても見ゆるぞ青田原」の句がある。
双樹と一茶の連句がある。
利根川は寝ても見ゆるぞ夏木立
| 一茶
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一村雨のほしき麦刈
| 双樹
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同年8月27日、小林一茶は雨の中を流山にやって来た。
芭蕉の「秋深き隣は何をする人ぞ」を踏まえた句であろう。
廿八日 雨
越後節蔵に聞へて秋の雨
『文化句帖』(文化元年8月)
流山市の赤城神社に句碑がある。
越後節蔵にきこえて秋の雨
同年9月1日、一茶は根本という村から流山にやってきた。
一日 晴 亦洪水加三寸。根本といへる邑の圦樋より切込。
蕣(あさがほ)やたぢろぎもせず刀根の水
『文化句帖』(文化元年9月)
流山市の光明院に双樹と一茶の連句碑がある。
双樹と一茶の連句碑
豆引や跡は月夜に任す也
| 双樹
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烟らぬ家もうそ寒くして
| 一茶
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二日 晴 亦洪水加六寸。水ハいよいよ増つゝ、川添の里人は手に汗を拳(にぎ)り、足を空にして立さハぐ。今切こミしほどの圦樋(いりひ)・彼堤とあはれ風聞に胸を冷して、家々のおどろき大方ならず。
魚どもの遊びありくや菊の花
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夕月や流残りのきりぎりす
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一茶双樹記念館に句碑がある。
夕月や流れ残りのきりぎりす
同年10月11日、一茶は馬橋から流山、12日布川、13日布佐、17日田川と巡り、20日江戸に帰る。
翌21日、双樹より家財道具が届く。
一茶は本所の愛宕社をひきはらい本所相生町に移転した。
廿日 晴 江戸入
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廿一日 晴 家財流山ヨリ来
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文化2年(1805年)正月23日、双樹から手紙が届き、双樹・翠兄・巣兆・国村の句が寄せられた。
正月廿二日出
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一書一通 流山双樹 廿三日とゞく
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日のさすにはつ音顔なる雀哉
| 双樹
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永き日に伐すかさるゝ柳哉
| 翠兄
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岨(そば)の菜のことに引立かすみ哉
| 巣兆
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雪前にさらへ込けり芹薺
| 国村
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文化2年(1805年)2月25日、26日、双樹は本所相生町に一茶を訪れる。
廿五日 菜植る記 双樹来ル ハンロ来ル
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廿六日 双樹 泉路来ル
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同年10月12日、一茶は本土寺の「翁会」に参加、13日流山、14日布川、15日再び流山へ。
ちとの間は我宿めかすおこり炭
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炭くだく手の淋しさよかぼそさよ
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文化3年(1806年)4月2日、一茶は双樹と深川に入る。
二日 晴 双樹と深川ニ入
かんこ鳥しなのゝ桜咲にけり
『文化句帖』(文化3年4月)
この句を発句にした一茶と双樹の両吟がある。
閑古鳥信濃の桜咲にけり
| 一茶
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まき(槇)の卯月にかゝる薄靄
| 双樹
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同年9月2日、22日、双樹は一茶を訪れる。
二日 陰 流山双樹来 常州起鳳来ル 宿二双樹草庵一
三日 雨 夜亥刻雷雨 双樹逗留
四日 雨 巳刻小雷 陰 双樹立
廿二日 晴 流山双樹来
『文化句帖』(文化3年9月)
文化4年(1807年)3月20日、双樹が本所相生町の一茶を訪れ、泊まる。
廿日 晴 かつしか判者披露 双樹泊
『文化句帖』(文化4年3月)
翌3月21日、一茶は双樹と江戸市中の寺を参詣。
廿一日 晴 双樹と方々遊参。湯島円満寺木食寺也。補陀殿ト有。イゝ蔵横丁天満宮、牛天神、波切不動、法化(華)山伏、小石川伝通院。
小石川伝通院は徳川家康の生母於大の方の菩提寺。
伝通院本堂
藪の蜂来ん世も我にあやかるな
大慈寺、善心寺、神齢山護国寺、観音開帳山開き。
護国寺観音堂(本堂)
桜花是も卅三所哉
護国寺の本尊は天然の瑪瑙石による如意輪観世音菩薩。
廿二日 雨 春蟻ヨリ大藤へ行 双樹不来
『文化句帖』(文化4年3月)
文化5年(1809年)4月17日、一茶は千住を通り流山へ。
十七日 晴 千住通リ流山ニ入
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十八日 晴
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蚊の出て空うつくしき夜也けり
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古わらぢ螢[と]ならば角田川
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双樹の句がある。
草[の]戸もあれば朝夕蚊遣り哉
| 双樹
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短夜をけしきばかりの枝折り哉
| 同
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文化7年(1810年)6月13日の朝、一茶は蕉雨と山谷堤から猪牙(ちょき)舟に乗り、浅草寺の鐘の音を聞く。
時の鐘(浅草寺)
その日は双樹の留守宅に泊まる。
双樹留主なれど、流山に泊。
『文化句帖』(文化7年6月)
同年9月16日、一茶は浅草から千住を通り流山へ。
なでしこの一花咲ぬ小夜ぎぬた
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行秋をぶらりと大の男哉
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文化8年(1811年)1月13日、西林寺を立ち流山に入る。
十三 晴 今日西林寺出立 布施ノ渡リ 花ノ井 大室 大黒新田 大黒 三輪田 加村 流山ニ入
『七番日記』(文化8年正月)
15日、一茶は成美宅に入る。
文化9年(1812年)2月12日、一茶は双樹と東海寺(布施の弁財天)に詣でる。
十二 大晴 布施紅竜山東海寺詣デ流山ニ入
『七番日記』(文化9年2月)
柏市あけぼの山公園に一茶の俳文碑がある。
米蒔くも罪ぞよ鶏がけ合ぞよ
同年3月1日、一茶は流山を訪れた。
一 晴 寒 流山ニ入。ヒレガ崎ハカ参。
『七番日記』(文化9年3月)
3月3日の双樹と一茶の連句がある。
三月三日
翌は又どこぞの花の人ならん
| 双樹
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川なら野なら皆小てふ也
| 一茶
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双樹と一茶の最後の連句である。
同年10月12日、降り出した雨に濡れて柏村から流山へ。翌13日双樹病む。
十二 陰 申刻雨 柏村ヨリヌレテ流山ニ入
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十三 晴 昨日ノ泥衣洗 双樹病
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芭蕉忌どころではなかったようだ。
同年10月27日、双樹没す。享年56歳。29日、双樹葬。一茶は双樹の葬儀に参加している。
廿七 雨 双樹没
廿九 晴 双樹葬
双樹仏
折々のなむあみだ仏聞きしりて米をねだりしむら雀哉
『七番日記』(文化9年10月)
双樹仏の野送りおがみて
鳴く烏こんな時雨のあらん迚(とて)
「短冊」
同年11月14日、一茶は江戸を引き上げる。
光明院に秋元双樹の墓がある。
一茶も何度か双樹の墓に詣でている。
文化13年(1816年)11月17日、一茶は流山に入り、翌18日に墓参。
十七 晴 流山ニ入
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十八 晴 又陰 双樹墓詣
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文化14年(1817年)2月28日、一茶は布川から流山に入る。
[廿]八 晴 流山ニ入 夜念仏有踊至鶏鳴
『七番日記』(文化14年3月)
一茶が流山を訪れるのは、これが最後である。
双樹の句
うぐひすのものにして置小家哉
古き世の恋してみせん新茶時
朝晩のおなじ霞に菜汁哉
ねぶるさへはしたはしたや秋の風
碁にまけてさがし出しけり初霞
手に居ん暮の月夜の礒家哉
朝飯も焚ぬうちから閑古鳥
木母寺へ行うと鳴歟いかのぼり
霜がれや鍋で水汲む角田川
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