蕉 門
杉山杉風
通称藤左衛門または市兵衛。「鯉屋」の屋号で幕府御用の魚問屋を営む。別号採荼庵。衰翁・衰杖。
正保4年(1647年)、江戸日本橋小田原町に生まれる。
延宝8年(1680年)、杉風は芭蕉に深川の草庵を提供する。深川芭蕉庵である。
誹若土糞と云ふ。薙髪して風羅坊とも號し、又禾々軒桃青とも呼ふ。江戸の杉風といふ者(後衰杖)此翁を師として仕へて、小田原町に住しめ、後は深川に庵を結ふ。
又初雁村に杉風が姉ありしといへば、深川の庵焼失の後、かの姉の許へ、杉風より添書など持れて行かれしなるべしと云。
何となふ(ふ)柴ふく風もあはれなり
| 杉風
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あめのはれまを牛捨にゆく
| 芭蕉
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無季の句である。
貞亨4年(1687年)、杉風は芭蕉に帷子を送っている。
元禄6年(1693年)、芭蕉は杉風、曾良の勧めに応じて「水辺のほととぎす」を詠んでいる。
頃日はほととぎす盛りに鳴きわたりて人々吟詠、草扉におとづれはべりしも、蜀君の何某も旅にて無常をとげたるとこそ申し伝へたれば、なほ亡人が旅懐、草庵にしてうせたることも、ひとしほ悲しみのたよりとなれば、ほととぎすの句も考案すまじき覚悟に候ところ、愁情なぐさめばやと、杉風・曾良、「水辺のほととぎす」とて更にすすむるにまかせて、ふと存じ寄り候句、
ほととぎす声や横たふ水の上
一声の江に横たふやほととぎす
元禄6年(1693年)秋、芭蕉は杉風の別邸採茶庵の萩を見て句を詠んでいる。
白露もこぼさぬ萩のうねり哉
元禄7年(1694年)閏5月21日、芭蕉の杉風宛書簡がある。
句作二色之内、越人相談候而住居の方をとり申候。飛騨のたくみまさり可申候[哉]。
元禄13年(1700年)、芭蕉七回忌追善集『冬かつら』(採荼庵杉風編・採荼庵梅人校)。
元禄16年(1703年)10月9日、浪化は33歳で没。
元禄16年(1703年)11月22日、関東大地震。29日、江戸大火。採荼庵類焼。
宝永元年(1704年)、『枯野塚集』(哺川撰)刊。採荼庵杉風序。嵯峨野去来跋。
享保2年(1717年)、『西國曲』(露川・燕説)板。杉風跋。
予一とせ深川にて杉風子の隱室を尋けるに衰老の床に臥されたる迚(とて)筆談に及て今江戸中に愚老を訪者一人もなし貴子遠境にして訪るゝことの風雅を感る迚悦れ鳬則挨拶の二句