十里庵哺川



『枯野塚集』(哺川撰)

元禄13年(1700年)、博多の哺川が枯野塚を建立した記念集。



芭蕉翁之墓

 宝永元年(1704年)、『枯野塚集』(哺川撰)刊。採荼庵杉風序。嵯峨野去来跋。

   枯野塚序

 亡師芭蕉翁、ことの葉のしけりふかく、諸国の門人句をかよはし、あるはところところの名所見せたきよしを願ふにたよりて、病身なから廻国の心たえす、終に元禄七のとしの冬、難波の夢となりたまふに、くにくにの門葉、其外いまた杖曳たまはぬ所まてしたひなけき、塚をつき、石碑を立、あるは絵像を拝す。粟津のはせを塚は尤なきからをおさめしところ也。深川の発句つかは芭蕉菴にみつから書のこされし笠の記略 世にふるもさらに宗祇のやとりかな、この句を築こめ、しるしの石は造化の工をそこなハす、自然にふるひたり。長崎の時雨塚は門人野坡か、をのをののぬるゝもひとつしくれ哉といふ句に、人々も時雨の句を奉りて、塚のあるしとせしよし。なを美濃あふミ伊賀のかたにも其沙汰きこゆ。しかるに此撰者哺川は遠境をたより、門下のおもひをなし、こゝろさし切にして、ことし七十年来まれなる老の手に、石をあつめ、土をつかねて、夢はかれのゝ病中の吟をさかのゝ去来より伝えて、これを塚のたましゐと納め侍りて、年月十里菴に枯野塚奇進の句をあつめ、世にひろむるよしにて、序を乞侍る。されはいにしへ、和哥に妙なる五人をえらひ五仏とあふき奉れは、元師貞徳老人.・はせを翁ハはいかいの二仏とや申れん。尚此原の松の葉の散うせす、風雅末の世になかくつたハらんしるしとおもひ侍る。

採荼庵杉風述

東武奇進句

芝草や又初はるのかれの塚
      杉風

枯野塚もてなせけふの朝みそれ
      曾良

夢になる夢や葉にして枯野塚
      岱水

行雁もおりてやすめよかれの塚
      仙化

難波奇進句

梅一重とゝけつくしの枯野塚
      諷竹

花はさそ手ことに誰も枯の塚
      車庸

美濃奇進句

松原の名よりもまされかれのつか
      魯九

尾州奇進句

年々にふえて芽立や塚の草
      露川

松並に雪のうねりやかれの塚
      素覧

豊後奇進句

あら塚もかたまれ袖の時雨先
      朱拙

旅人のとかめもゆかし枯野塚
      りん

かけまはる終の宿りやかれの塚
      野紅

筑後奇進句

古墳の海にもちかき月夜かな
      佐越

   三月十二日 十里菴興行
    野坡
春雨や松の隣の枯野塚

箒の先におとす山ふき
      哺川

うしの子を追こむ小村長閑にて
      未雷



博多福岡連衆

塚まうて今朝は袷に麻羽織
      未雷

草の葉の畳んで凉し枯野塚
      麁六

ふゆ牡丹はしめてきるや枯野塚
      昌尚

   春 之 部

   梅   

梅咲てなをうこかすや馬の花
 岱水

里いそく夜道をとめし梅おろし
 杉風

半天に押出す梅の匂ひかな
 哺川

下えたに追つきたかる柳かな
 りん

青柳に嘴入るゝ雀かな
 野紅

やなき吹風にすはやき小鮎哉
 未雷亡父
 一知

野鴉の落つく方やはつ桜
 麁六

皆迄は見らぬさくらの盛哉
 野坡

   尾張の国笠寺を通りける時、宝前
   にてこの句を見付侍るよし、ある
   人かたりけれは

笠寺やもらぬ岩屋も花の雨
 翁

   夏 之 部

めしたけて伊勢迄誰か更衣
 其角

   草 木

田の水の初穂とりてや杜若
 宇鹿

   秋 之 部

しほ蓼の穂にいつる月の余波哉
 其角

雨次も月みる後の菜大こん
 杉風

さらし着て昼寐を盆の遊ひ哉
 野坡

   去来子にわかれしとき

みのむしのついても行ん旅の袖
 哺川

   題しらす

目さまして何にせうやら秋の宿
 土芳

秋もけふたつ日や川の薄濁り
 諷竹

   冬 之 部

   時 雨

鳥の羽もさはらハ雲のしくれ口
 丈艸

   雪

はつ雪を持ちからなく落葉かな
 杉風

はつ雪や菴に付たるひとり扶持
 沙明

   箱崎   十里松

はこさきや八幡大名萩の庭
 宗因

   太守公の御前にて

御ン門や箱崎生の松かさり
 仝

箱さきや爰にては鳩を呼子とり
 言水

ひハたふく日のめのふたや松の苔
 惟然

   福岡   博多

もろこしの菊の花さく五里の浜
 支考

ふくおかや千賀のあら津も雁鱸(すずき)
 去来

   未雷亭をたつねけるに
      留主なれは福岡に通り侍るとて

五里の浜宿とり兼て鳴雲雀
 野坡

   麁六亭

福岡や花と汐干を旅ね哉
 ゝ

   昌尚亭にて博多といふ
      題をのそまれけれは

家並か博多は花に海の音
 ゝ

   枯野塚十二日の興行はしまりけるに

花の次の出合はしめは十二日
 ゝ

   十里菴にて福岡の
      連衆もよほされ留別の会あり

行春や座はかきさかす松露取
 ゝ

   昌尚亭   廿二日

椿さく春はまたあり松のわき
 野坡

   未雷亭
去来
五里の浜月抱とめてかりね哉

 菊と一度に鳥の来そろふ
 未雷

満作の穂つらにあらし吹かけて
 江立

 傘もとす市の六齋
 哺川

半疋のさらしを膝に裁ちらし
 一定

利牛
のとかさや寒の残りも三ケ一

 うちかへしやく雉子の胴がら
 岱水

薹にたつ冬菜のつほみ伐捨て
 翁

 この三句は京のかたよりきこえ侍る

 箱崎の浦に枯野塚といふあり。是は先師はせを翁の、難波の病床に吟したまひけるとなんを基として、松かけに世をいとへる人のきつきけるとなん。予ひとゝせこゝに□□てゝ、これそまことに御句の聞納めなりしなと、むかし物語申けるつゐて、幸にその夜侍者にかゝせて、人々に見せ給ひける御句我かたにあり、家に帰りはへらはかならすをくり侍らん。かつは先師のかたみとも見たまへとちきりわかれぬ。かさねてみやこよりのたよりに、これをまいらするとて、予も発句をそへてつかはし侍る。ことし同門野坡こゝにたひねせられしにすかりて、此集とりたてけるよしにて、序は杉風に乞。是に跋せんことをのそまれけれハ、又この文をまいらするものなり。

嵯峨野去来跋

宝永甲申夏
   哺川撰

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