旅のあれこれ
吉田松陰ゆかりの地
文政13年(1830年)8月4日、長州萩城下松本村(現:山口県萩市)で長州藩士杉百合之助の次男として生まれる。 嘉永2年(1849年)7月4日、吉田松陰は藩主の命を受けて萩を立ち、赤間関まで北浦沿岸の防備体制を巡視する。 嘉永3年(1850年)9月2日、吉田松陰は萩を立ち、長崎に遊学する。12月29日、帰郷。 嘉永4年(1851年)3月5日、吉田松陰は藩主に従って萩を立ち、4月9日、江戸に到る。35日の旅であった。 嘉永4年(1851年)12月14日、吉田松陰は脱藩して東北遊歴の旅に出る。 嘉永5年(1852年)4月4日、江戸に帰る。 嘉永6年(1853年)正月26日、萩を出発。四国から大阪、伊賀、伊勢から中山道を経て江戸に入る。 嘉永6年(1853年)9月18日、吉田松陰は佐久間象山の示唆によりプチャーチンを追って江戸を発ち長崎に赴く。 嘉永7年(1854年)3月27日、再航したペリー艦隊を追って弟子金子重輔と下田へ。 安政4年(1857年)、吉田松陰は松下村塾を引き継ぐ。 安政6年(1859年)5月25日、吉田松陰は萩から江戸に護送される。「涙松集」 安政6年(1859年)10月27日、安政の大獄に連座して江戸伝馬町の獄刑場で没。 文久3年(1863年)、当時長州毛利藩藩主毛利大膳大夫の所領で大夫山と呼ばれていた地に改葬。 明治15年(1882年)11月、大夫山に松陰神社創建。 明治40年(1907年)、伊藤博文や野村靖が中心となって松陰神社創建の請願書が山口県に提出され、10月4日に県社の社格をもって創建が許可された。 |