2018年下 町
indexにもどる

十思公園〜吉田松陰〜

日本橋小伝馬町に十思公園がある。

十思公園入口


 安永8年(1779年)平賀源内はふとしたことから人を傷つけ、11月21日に投獄され、12月18日に破傷風により獄死した。

石町時の鐘


 東京都指定有形文化財

銅鐘 石町時の鐘

 江戸で最初の時の鐘は、本石三丁目(現在の本町4丁目・室町4丁目の一部)に設置された石町の時の鐘であるといわれています。江戸市中に時刻を知らせた時の鐘は、市街地の拡大にともない、浅草・本所・上野・芝・市谷・目白・赤坂・四谷などにも設けられました。

 石町時の鐘は、鐘撞き役であった辻源七の書上によると、寛永3年(1626年)に本石町3丁目へ鐘楼堂を建てて鐘を撞いたことが記されており、鐘の音が聞こえる範囲の町からは「鐘楼銭」を集めて維持・運営が図られていました。

 本石町に設置された時の鐘は、何度か火災にあって破損したため修理や改修が行われました。現在の銅鐘には「寛永辛卵四月中流浣 鋳物御大工 椎名伊豫藤原重休」の銘文が刻まれており、宝永8年(1711年)に鋳造されたことがわかります。

 「石町は江戸を寝せたり起こしたり」と川柳にも詠まれた石町時の鐘は明治をむかえて廃止されましたが、昭和5年(1930年)に本石町から十思公園内に完成した鉄筋コンクリート造の鐘楼へ移籍されて現在に至っています。

中央区教育委員会

鐘楼の反対側に3基の碑が並んでいる。


松陰先生終焉之地


吉田松陰歌碑


身ハたとひ武蔵の野辺に
朽ぬとも留置まし大和魂
 十月念五日 二十一回猛士

吉田松陰先生略歴


吉田松陰先生は天保元年長門の國萩の町はづれ松本村に生まれました。兄弟思ひ親思ひ忠義の志の厚かつた人です。

小さい父や叔父の教を受け熱心に勉強して兵法の先生になりました。それから日本中を旅行したり多くの書物を讀んだりして一層修業を積み、ある時はアメリカの軍艦に乘つて外國を研究に行かうとしたこともありました。のち郷里の松下村塾で多くの人を教へましたが、その門人の中から木戸孝允・伊藤博文山縣有朋をはじめ忠義でえらい人がたくさん出ました。

先生は天子様に忠義をするために幕府をあなどつたといふので安政六年傳馬町の牢屋に入れられましたが、その年の秋この地でりっぱな最期をとげました。時に三十歳でした。

先生のまごころは永くこの土地この世に留まつて忠義な人が次々に出るのを願つて居ます。

「十思公園ご案内」に詳しい説明がある。

江戸三縁史蹟

銅鐘石町時の鐘

 江戸時代最初の時の鐘で、二代将軍秀忠の時は江戸城内の西の丸でついていたが鐘楼堂が御座の間近くで差障りがある為、太鼓にかえて鐘は日本橋石町に鐘楼堂を造って納めたのが起源で、明暦3年、寛文6年、延宝7年と3度も火災にあい破損したので、その後身として宝永8年に鋳造されたのがこの宝永時鐘である。音色は黄渉調長久の音という。享保10年旧本石町三丁目北側の新道の間口十二間奥行十九間三尺の土地に鐘楼堂を建て、時銭として1軒につき1ヶ月永楽銭1文ずつ当鐚で4文ずつを商業地區の大町小町横町計四百十ヶ町から集めて維持していた。鐘役は最初から代々辻源七が当たっていたので、辻の鐘とも呼ばれていた。鐘楼下では俳人蕪村が夜半亭と名づけて句会を催して深川の芭蕉庵と共に有名であった。当時江戸には日本橋石町、浅草、本所、横川町、上野芝切通、市ヶ谷八幡、目黒不動、赤坂田町、四谷天竜寺の9ヶ所に時鐘があったが石町時鐘はその最古のものである。石町鐘楼堂から二丁程の所に伝馬町獄があった。囚人たちは種々な思いをこめてこの鐘の音を聞いたことであろうし、処刑もこの鐘の音を合図に執行されたが処刑者の延命を祈るかのように遅れたこともあって、一名情けの鐘ともいゝ伝えられている。幕末時鐘廃止後は石町松沢家の秘蔵となっていたが、十思後援会が寄進を受けて昭和5年9月十思公園に宝永時鐘々楼を建設し当時の市長永田秀次郎殿で初撞式を挙行した後東京に寄進した。

 安政6年(1859年)、橋本左内は小伝馬町牢屋敷において斬刑となり、小塚原回向院へ埋葬される。

伝馬町牢屋敷跡

 伝馬町牢は慶長年間、常盤橋際から移って明治8年市ヶ谷囚獄が出来るまで約270年間存続し、この間に全国から江戸伝馬町獄送りとして入牢した者は数十万人を数えたといわれる。現在の大安楽寺、身延別院、村雲別院、十思小学校、十思公園を含む一帯の地が伝馬町牢屋敷跡である。当時は敷地総面積2,618坪、四囲に土手を築いて土塀を廻し南西部に表門、北東部に不浄門があった。牢舎は揚座敷、揚屋、大牢、百姓牢、女牢の別があって、揚座敷は旗本の士、揚屋は士分僧侶、大牢は平民、百姓牢は百姓、女牢は婦人のみであった。

 今大安楽寺の境内の当時の死刑場といわれる所に地蔵尊があって、山岡鉄舟筆の鋳物額に「為囚死群霊離苦得脱」と記されてある。

 牢屋敷の役柄は牢頭に大番衆石出帯刀、御□(※「木」+「豕」)場死刑場役は有名な山田浅右エ門、それに同心78名、獄丁46名、外に南北両町奉行から与力1人月番で牢屋敷廻り吟味に当たったという。伝馬町獄として未曾有の大混乱を呈した安政5年9月から同6年12月までの1年3ヶ月の期間が即ち安政の大獄で吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎等50余人を獄に下し、そのほとんどを刑殺した。その後もこゝで尊い血を流したものは前者と合わせて96士に及ぶという。これ等愛国不盡忠の士が石町の鐘の音を聞くにつけ「わが最期の時の知らせである」と幾度となく覚悟した事であろう。尚村雲別院境内には勤王志士96名の祠と木碑が建てられてある。

吉田松陰先生終焉之地

 吉田松陰先生は天保元年(1830年)8月4日長州萩の東郊松本村で杉家の二男として生まれた。幼い頃に吉田家をついだ。成人しての名を寅次郎という。吉田家は代々山鹿流兵学師範の家であったので、早くから山鹿流兵学その他の学問を修め、その道を究めて、子弟の教育につとめた偉人である。安政元年(1854年)3月師の佐久間象山のすゝめで海外渡航を計画し、下田から米艦に便乗しようとして失敗、下田の獄につながれたが伝馬町獄送りとなって途中、高輪泉岳寺の前で詠んだのが有名な次の歌である。「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」同年9月まで約6ヶ月間伝馬町獄に留置されていたが、国元萩に謹慎の身となって帰って後の松下村塾での教育が最も偉大な事業であろう。薫陶を受けた中から有爵者6名、贈位者17名、優位者14名等多くの著名の士が出て中でも伊藤博文、山県有朋、木戸孝允等は、明治維新の大業に勲功のあった人物である。わが国歴史の上での三大変革といえば大化の改新、鎌倉幕府の創立、明治維新の三であるが、その明治維新にこれら松下村塾生の働きが大きな力となったことを深く考えたいのである。後松蔭は安政の大獄に連座して再び伝馬町獄に入牢となった。安政6年7月9日江戸の長州藩邸から始めて評定所に召出されたが、その時「まち得たる時は今とて武蔵野よいさましくも鳴くくつわ虫かな」と決心を歌にのべている。しかし幕府の役人を動かすことが出来ず、その後の3回の取調べで死刑を覚悟した10月22日に父、叔父、兄へ宛て永訣の書を送っているがその中にあるのが「親思ふ心にまさる親ごころけふのおとづれ何と聞くらん」の一首である。また処刑の時の近づいたのを知って10月25日より26日の黄昏までかゝって書きあげたのが留魂録でその冒頭に「身はたとひ武さしの野辺に朽ちぬともとゞめ置かまし大和魂」十月念五日 二十一回猛士 と記してある。松蔭はこれを同囚で八丈島に遠島になった沼崎吉五郎に託したが20年後当時神奈川県令で塾生であった野村靖に手渡したものが現在残っている留魂録である。それによって当時の法廷の模様、訊問應答の次第、獄中の志士の消息等がわかり、自己の心境と塾生の行くべき道を示したもので崇高な松陰魂の指南書ともいえるものである。安政6年10月27日は処刑の日であった。揚屋を出る松陰は次の詩をを高らかに朗吟して同囚の士に訣れを告げたのである。「今吾れ国の為に死す 死して君に背かず 悠々たり天地の事 鑑照明神に在り」次いで刑場では「身はたとひ」の歌を朗誦して従容として刑についた。行年30歳。明治22年2月11日正四位を贈位され、昭和14年6月十思小学校々庭に留魂碑が建設された。

留魂碑


勉強になった。

2018年下 町〜に戻る