2012年静 岡

吉田松陰の像〜三島神社〜

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下田市柿崎に三島神社がある。


三島神社


吉田松陰(天保12年──安政6年)

 幕末の志士、文政12年(1830年)8月4日、長門国萩松本村(山口県萩市)長州藩士杉百合之助常道の次男として誕生、名は矩方(のりかた)、通称は寅次郎、二十一回猛士と號す。母は児玉氏の出で、名は瀧といった。

 天保5年(1834年)、5歳の時叔父吉田大助賢良の養子となり、嘉永4年(1851年)、江戸に出て佐久間象山に師事し洋学を研鑽した。

 燃ゆるが如き憂国の至情は宇内を探知せんとし、安政元年(1854年)3月27日の夜半、金子重輔と共にここ柿崎より下田湾内に停泊中の米旗艦ポーハタン號に搭乗し渡航を計らんとしたが、遂にその夢破れて当柿崎村の名主平右衛門方に自首した。後、江戸より萩に送られて幽閉されたが、自宅に松下村塾(安政3年7月──5年12月)を開き、尊皇攘夷、倒幕運動に活躍した多くの人材を育成した。

 程なく安政の大獄に連座して安政6年(1858年)10月27日、江戸伝馬町の獄刑場で波瀾にとんだその生涯を終った。時に30歳。

 徳富蘇峰は松陰を評して「実に真誠の人なり。仮作の人にはあらざるなり」と。洵に吉田松陰こそ真実一路の道を歩いた絶世のヒューマニストであった。

嘉永7年(1858年)11月27日、安政に改元。

 明治24年(1891年)5月13日、保田龍門は和歌山県那賀郡竜門村(現:紀の川市)に生まれる。

三島神社に吉田松陰の像があった。


昭和17年(1942年)10月27日、加茂郡教育会建設。保田龍門作。

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