伊藤家は鎌倉時代から続く下関屈指の名家。室町・江戸時代には港町下関の指導者的な地位にあり、この地に広大な邸宅を構えていた。室町時代は、下関の交通・流通などを掌握して朝鮮交易も行い、江戸時代には大年寄として町政を司る。また、本陣を兼帯して九州諸大名の参勤時の休泊所となり、各藩の用達も行った。特に対馬宗氏とは前代から親密な関係にあった。 伊藤家はオランダ宿として名高い。江戸に参府するオランダ商館長は、伊藤家と佐甲家の2つの本陣を下関の定宿とした。歴代当主は進取の気性に富み、開明的であったが、なかでも文化・文政期の当主杢之允盛永(もくのじょうもりなが)は、熱烈なオランダ趣味の人で、ヘンドリック・ファン・デン・ベルグというオランダ名を名乗り、ヅーフ、ブロンホフなどの商館長と親しく交際した。佐甲家に宿泊した商館医のシーボルトも杢之允から歓待されている。 また、幕末の当主杢之助(静斎)は吉田松陰と交際し、助太夫(九三(きゅうぞう))は真木菊四郎や坂本龍馬を支援した。とりわけ、慶応2・3年頃の龍馬は伊藤家を活動の拠点としていた。近代初頭の明治5年6月、伊藤家は明治天皇の西国巡幸時の行在所となり、本陣としての最後の役割を終えた。
下関市 |
龍馬とお龍が生活した |
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本陣 伊藤邸跡 |
幕末の当主助太夫(九三)は、龍馬の活動を物心両面から支えた人物です。 龍馬と助太夫(九三)との関係は、龍馬が薩長同盟実現に向けて下関を尋ねた慶応元年(1865年)に始まりました。以来、龍馬は下関を訪ねる度に伊藤家を寄宿先とし、慶応3年2月10日からは、同邸の一室「自然堂」を借り受け、愛妻お龍とともに暮らし始めます。 伊藤家では、龍馬の朝帰りにお龍が激怒することもありましたが、夫婦で歌会に参加するなど、仲睦まじい日々を送りました。
下関市観光施設課 |