2018年山 口

吉田松陰誕生地〜吉田松陰先生銅像〜
indexにもどる

伊藤博文旧宅から吉田松陰誕生地へ。

高杉晋作草庵跡顕彰碑があった。


 萩市指定史跡

 吉田松陰誕生地

ここは吉田松陰の実家、萩藩士杉家(家禄26石)の旧宅地である。

この付近は「団子岩」と総称され、萩城下が一望できる風光明媚な所である。

杉家の建物は、元は萩藩士八谷聴雨の山荘であり「樹々亭」と称していた。

松陰は、天保元年(1830年)8月4日、杉百合之助の次男としてここに生まれ、19歳までの人間としての形成期を過ごした。

両親や兄弟とともに農耕に従事し、その合間には父から漢籍の素読などを受けた、思い出深い場所である。松陰自身の書き残した書の中にも、「樹々亭」「山屋敷」「山宅」などの表現が見られる。

旧宅の間取りは玄関(3畳)、表座敷(6畳)、居間(6畳)、隠居部屋(3畳)、納戸(3畳)、台所、それに別棟の納屋と厩という、非常に狭く、簡素な造りであった。

嘉永6年(1853年)に杉家が転居した後、いつしか建物などは失われ、荒れ果てていたが、大正11年(1922年)に椿東村青年会会長信国(のぶくに)顕治が、青年会員に呼びかけて整備した。当時の間取りを示す旧宅の敷石も、後に住んでいた人の記憶によってこの時復元したものである。

整備に合わせて山県有朋が「吉田松陰先生誕生之地」石碑の題字を揮毫している。肩書きを「門下生」のみとしているところに、師に対する謙譲の気持ちが表れている。なお、山県は整備完了前に死去したので、これが絶筆となった。

「吉田松陰先生誕生之地」石碑


松陰誕生地と萩の眺望

 この地は一名「団子岩」ともいわれ、吉田松陰が生まれ、幼時期を過ごした所です。

 ここから市内を一望すると、この小さな城下町の中から生まれた維新の活力を彷彿とさせてくれます。萩は関ヶ原の戦いに敗れた毛利氏が、この三角州指月山のふもとに城と町を築いたところで、江戸時代の典型的な城下町の姿を保ち、細工町、侍屋敷、商人町、寺町など、その構造を知るには最も都合のよい町であるといわれています。

市内を一望する


吉田松陰先生銅像


 この銅像は、明治維新100周年を記念して昭和43年(1968年)に建立されたものである。松陰先生が弟子の金子重輔を従え、下田沖のぺりー艦隊を見つめている姿を彫刻したもので、高さは約8mある。題字は当時の佐藤栄作首相が書き、銅像は萩出身の日展審査員長嶺武四郎が製作している。

伊藤柏翠の句碑があった。


この花の
松陰を生み
   志士を生む

 伊藤柏翠(勇)(1911)

高浜虚子に師事。俳誌「花鳥」主宰。
日本伝統俳句協会副会長。
東京都浅草生まれ。福井市在住。
昭和7年鎌倉にて病気治療中より作句、現在に至る。
昭和56年より毎年来萩。萩花鳥句会を指導。
句集「虹」「越前若狭」、他。

平成11年(1999年)9月1日、没。

 萩市指定史跡

吉田松陰の墓ならびに墓所

 吉田松陰の墓は、高さ0.8m、幅0.45m、礎石からの高さ1.6mの花こう岩質の自然石で作られている。

 表に「松陰二十一回猛士墓」、裏に「姓吉田氏、称寅次郎、安政六年己未十月二十七日 於江戸歿 享年三十歳」と刻まれている。

 万延元年(1860年)2月7日は松陰の没後百ケ日に当たるので、生家の杉家では百ケ日忌を営み遺髪を埋めて作られたものである。墓前には門人17人が寄進して、その名を公然と刻んだ石製水盤、花立、燈籠が供えられている。

 また、この墓所には杉家、吉田家、玉木家、そして久坂家一族と高杉晋作など松陰とゆかりの深い人々の墓の墓が立ち並んでいる。

昭和30年(1955年)、吉井勇が夫人同伴で萩を訪れた。

吉井勇の歌碑があった。


萩に来て
   ふとおもへらく
      いまの世を
   救はむと起つ
      松陰は誰

昭和41年(1966年)5月22日、建立。

2018年山 口〜に戻る