長崎に尾花塚ありと風俗文選に見へはべれば、そこかしこ尋れどもしれず。魯町・卯七等が跡を追ふすき人もなければ、いつの代に頽廃せしにや、処さへさだかならず。悲むべし。此地の不雅なる事を。其後紗鹿といふ者しぐれ塚をきづくといへども、其地蕪穢にしてしかも俗碑に混ぜり。これ又かなしむに堪たり。野坡が徒などゝいひ立一党をむすび、昼夜奔走する族もあなれど、風雅といふ事をしらざれば、ひたもの蕉門を汚すに似たり。
『誹諧曇華嚢』 |
一番左は去来の供養塔。

恭祭落柿舎去來翁之霊
享和3年(1803年)、建立。
文政年間 (1804〜30) 、饒田喩義(にぎたゆぎ) の『長崎名勝図絵』にも「芭蕉翁の発句塚は一ノ瀬にあり。野坡碑文を撰せり。歳月を経る事久しくして、今や此碑の所在を失す。」とあるそうだ。
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又た左りの高い山の處が以前の街道で此處に去來が卯七に別れた時の發句の塚が有ります之を尾花塚といふて全國に聞江た評判奈塚で有ます。
明治26年(1893年)刊『長崎名所案内』 |
「尾花塚」ではなく、「芒塚」である。
嘉永3年(1850年)11月27日、吉田松陰は春徳寺を訪れている。
一、二十七日 晴。鄭を訪ふ。申時より仲亮を伴ひて春徳寺に至り、東海の墓を見、城山に登り長崎を望み、魯を小とするの思をなす。山の形勢、烽火山其の後に興り、金毘羅山其の右に連り、彦山其の左に峙つ。
『西遊日記』 |
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