私の旅日記2015年

春徳寺〜時雨塚〜
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長崎市夫婦川町に春徳寺という寺がある。


春徳寺山門


トードス・オス・サントス教会跡コレジヨセミナリヨ跡

 永禄10年(1567年)領主長崎甚左衛門にキリスト教の布教の許しを得たアルメイダは、以後長崎での布教を始めました。甚左衛門の館は、現在の桜馬場中学校の地にあり、その周辺に集落が形成されていました。甚左衛門はガスパル・ビレラ神父にこの地にあった小さな寺院を提供、同12年この寺院を改装して長崎で最初の教会が造られました。同教会には、慶長2年(1597年)にセミナリヨやコレジオも置かれ、活字印刷所なども併設されました。

華嶽山春徳寺


臨済宗建仁寺派の寺である。

本堂の向かいに5基の石碑が並んでいる。


一番右が「時雨塚」。


   崎陽門人等合立

芭 蕉 翁 之 塔

 元禄12年(1699年)、芭蕉の七回忌に野坡の撰文で長崎一ノ瀬街道に建立。林陀方書。

『諸国翁墳記』に「時雨塚 肥前長嵜アリ 宇鹿建」とある。

   長崎に先師の碑を建て、時雨塚と名づく。今
   歳神無月十二日人々と詣て、 共四句

拝み処(ど)にのぼる小坂の時雨哉
   卯七

樫の木にたよる山路の時雨哉
   牡年

踏分る杖のあまりのしぐれかな
   野坡

こゝはまた汐のふる時雨哉
   素行


その隣が芭蕉の句碑。


宿かして名をなのらするしくれかな

出典は『芭蕉庵小文庫』

 元禄4年(1691年)10月、芭蕉東下の際初めて島田の塚本如舟邸を訪れて詠まれた句。

「真蹟懐紙」には「宿かりて」とある。

これも「時雨塚」である。

宝暦14年(1764年)6月2日、明和に改元。

宝暦14年(1764年)7月、百華井紗戒建立。

左右に西田宇鹿・紗鹿父子の句が刻されている。

左 山裏は迷ひ子かへせ郭公   宇鹿

右 名月や西やひかしに行烏   沙鹿

次は芭蕉の「翁追善塚」。


寛保3年(1743年)10月、芭蕉の五十回忌に西田紗鹿が建立。

その次が「百華井宇鹿先生碑銘」。

延享元年(1744年)9月、建立。

 明和8年(1771年)5月、蝶夢は「尾花塚」を見ている。

祇園の社に清水の社にならびて、清水の観音閣あり。その坂の半ばに尾花塚立り。かゝる波濤のすゑ迄も、風雅の余光の及びぬるぞかしこき。


 天明8年(1788年)6月、長月庵若翁は長崎に着く。10月12日の芭蕉忌に「尾花塚」を探したが、分からなかった。

長崎に尾花塚ありと風俗文選に見へはべれば、そこかしこ尋れどもしれず。魯町・卯七等が跡を追ふすき人もなければ、いつの代に頽廃せしにや、処さへさだかならず。悲むべし。此地の不雅なる事を。其後紗鹿といふ者しぐれ塚をきづくといへども、其地蕪穢にしてしかも俗碑に混ぜり。これ又かなしむに堪たり。野坡が徒などゝいひ立一党をむすび、昼夜奔走する族もあなれど、風雅といふ事をしらざれば、ひたもの蕉門を汚すに似たり。

『誹諧曇華嚢』

一番左は去来の供養塔。


恭祭落柿舎去來翁之霊

享和3年(1803年)、建立。

 文政年間(1804〜30) 、饒田喩義(にぎたゆぎ)の『長崎名勝図絵』にも「芭蕉翁の発句塚は一ノ瀬にあり。野坡碑文を撰せり。歳月を経る事久しくして、今や此碑の所在を失す。」とあるそうだ。

又た左りの高い山の處が以前の街道で此處に去來が卯七に別れた時の發句の塚が有ります之を尾花塚といふて全國に聞江た評判奈塚で有ます。

明治26年(1893年)刊『長崎名所案内』

「尾花塚」ではなく、「芒塚」である。

 嘉永3年(1850年)11月27日、吉田松陰は長崎遊学中、春徳寺を訪れている。

一、二十七日   晴。鄭を訪ふ。申時より仲亮を伴ひて春徳寺に至り、東海の墓を見、城山に登り長崎を望み、魯を小とするの思をなす。山の形勢、烽火山其の後に興り、金毘羅山其の右に連り、彦山其の左に峙つ。


 大正9年(1920年)11月14日、斎藤茂吉土屋文明と共に春徳寺を訪ねている。

      十一月十四日。土屋文明氏と共に春徳寺を訪ふ

黄檗の傑れし僧のおもかげをきのふも偲びけふもおもほゆ


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