2015年熊 本

熊本城〜「昭君の間」〜
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昨日の熊本城マラソンも終わったので、今日は熊本城に行く。


 天正15年(1583年)、佐々成政は魚津城から隈本城に入る。佐々成政は検地を強行し、肥後国人一揆を引き起こす。

 天正16年(1584年)、成政は切腹を命じられ、加藤清正が隈本城に入った。

不開門から入る。


不開門(重要文化財)

 古くから丑寅(東北)の方角は鬼門と呼ばれ、不浄の気の出入りするところと考えられてきた。築城にあたっても、この方向は塞いでも開け放ってもいけないとされ、門は造るが通常は閉鎖されていた。そこから不開門(あかずのもん)と呼ばれ死人や不浄物の搬出時にだけ用いられたという。

 この門の形式は両側の石垣の上に櫓を渡し架けて、その下が門となった櫓門で、要衝に配置されていた。復元された「西大手門櫓」「南大手門櫓」も同じ形式である。往事の熊本城では18箇所に櫓門が造られていたが、江戸時代そのままに現存するのは、この「不開門」のみとなっている。

 昭和8年(1933年)に国宝となり、戦後は文化財保護法の施行により重要文化財に指定されている。

熊本市

平櫓


熊本城の平櫓(五間櫓・北十八間櫓・東十八間櫓)

 熊本城が築城された慶長年間(1596〜1614)櫓49・櫓門18・城門29がそびえていたが、明治10年(1877年)西南戦争勃発直前の火災により大半を焼失した。

 現在、熊本城には焼失をまぬがれた13の建造物があり国の重要文化財に指定されている。

 櫓は武器、武具などの倉として使用され、戦時には兵の駐屯所にも当てられた。

熊本市

天守閣


特別史跡 熊本城

 日本三名城の1つに数えられる熊本城は、加藤清正が幾多の実戦の経験を生かし、慶長6年(1601年)から7ヶ年の歳月を費やして完成したものと伝えられている。周囲5.3キロに及ぶ豪壮雄大な構えで、120余の井戸を掘り、かつては櫓49、櫓門18、城門29を数えた。

 明治10年(1877年)の西南戦争で多くの建物を焼失したが、薩軍の猛攻撃に耐え、名城としての真価を発揮した。

 熊本城の石垣は、特異な勾配と堅牢さで知られ、「武者返し」の石垣と呼ばれている。なお現在の天守閣は、昭和35年(1960年)に再建されたものである。

熊本市

「日本100名城」では、名古屋城大坂城・熊本城を三名城としている。

往時の本丸御殿周辺

 本丸御殿は慶長15年(1610年)年頃に加藤清正によって創建され、その後寛永10〜12年頃(1633〜1635)に細川忠利により増改築がなされたと考えられており、のちに西南戦争の際(明治10年(1877年)2月19日)に起こった火災により大小天守閣とともに焼失しています。

 往事は部屋数53室(畳総数1570畳)を数えたと云われています。そのうち大広間棟、大台所棟、数寄屋棟を中心に部屋数25室(畳総数580枚)の復元を行っています。

 その他の復元していない藩主の居間などの部分は、遺構や石材による平面表示を行っています。

昭君之間


 対面所(藩主の会見の場)。大広間にて最も格式の高い部屋で、慶長期の特色である鉤上段を設け、北側に床の間と違棚、西側に付書院と違棚、東側に張台構えが備えられた書院造りです。床壁や襖に中国の故事「王昭君」の物語の絵を、天井に花木の絵を復元しています。[18畳]

「王昭君」の物語の絵


王昭君とは

 王昭君(紀元前1世紀頃)は、楊貴妃・西施・貂蝉と並ぶ古代四大美女の1人。前漢の時代、和睦の証として女性を贈る習わしがあり、元帝は匈奴へ贈る女性を、後宮の中の醜い女性の中から選ぶため似顔絵を描かせたが、似顔絵師に賄賂を贈らなかった美しい王昭君は、一番醜く描かれていたために選ばれてしまったという。(王昭君は帳台構えに描かれている、琵琶を弾き白馬に乗っている女性)

天井の「花木の絵」


 「昭君の間」は「将軍の間」であるという説がある。豊臣秀頼に万が一の時、加藤清正は熊本城に秀頼を迎え入れるための部屋が「昭君の間」というのだそうだ。

 楊貴妃は白居易の『長恨歌』で知られる。西施は芭蕉の「象潟や雨に西施がねぶの花」で知られる。貂蝉は小説『三国志演義』に登場する架空の女性。董卓とその養子呂布と仲違いさせる。

中国人が多いのに閉口した。

宇土櫓


宇土櫓(重要文化財)

 熊本城内に残る唯一の多層櫓で、外観は3層、内部は5階に地下を備えている。古くから小西行長の宇土城天守を移築したものと伝えられ、宇土櫓の呼び名の起こりとされた。しかし、解体修理の調査などから、熊本城内で創建された櫓であることが明らかとなった。

 木材は主にマツを使い、他に栂(つが)・楠(くす)・栗(くり)等も使用している。黒光りした手斧(ちょうな)痕の残る柱には歴史の重みが実感できる。屋根瓦は全部で4万6千枚にも達し、その中には400年の歳月に耐えた加藤家の桔梗紋を持つ瓦も残っている。

 明治10年(1877年)2月19日の城内火災では、折からの強い西風で風上に位置したことから、幸運にも難を逃れた。昭和60年から5年がかりで修理を行い、平成元年10月から一般公開している。

熊本市

梅が咲いていた。


雨に濡れて、「李下一枝春帯雨」といった風情だ。『長恨歌』の一節である。

平櫓


 慶長16年(1611年)6月24日、加藤清正は50歳で没。三男忠広が11歳で跡を継ぐ。

 寛永9年(1632年)5月22日、加藤忠広は江戸参府途上品川宿で入府を止められ、池上本門寺にて改易の沙汰があり、出羽庄内藩主酒井忠勝にお預けとなる。細川忠利が小倉から熊本54万石に加増移封された。

 飛鳥川の渕瀬常ならぬ世は、今更おどろくべきにしもあらねど、過ぬる寛永九年五月のころほひ、太守おもひがけぬ事にあたり給ひて、遠きさかひにおもむき給。よろづの人なげきかなしむにたへず、おしみとゞむるにちからなくて、こなたかなた、たよりにしたがひて行ちりぬ。まことにおかしなきにて配所のかなしびにしづめるたぐひ、もろこしのふるき跡にも、日の本のちかきためしにもきけど、かゝるとみの事はなくやありけむ。

「肥後道記」

 嘉永3年(1850年)12月13日、吉田松陰は熊本城を見て、その巨大さに驚いている。

一、十三日 晴。朝、池部彌一(郎)來る、出足す。熊府の城郭の巨大、實に驚くに堪へたり。人以て九州第一と稱す、蓋し過稱に非ず。


 大正9年(1920年)12月30日、斎藤茂吉は長崎から熊本に来て泊まり、翌31日熊本見物。

      大正九年十二月三十日。長崎發、熊本泊、翌三十一日熊本見物
      を終り、同夜人吉林温泉泊。大正十年一月一日。林温泉より鹿
      児島に至る。一泊

秀頼が五歳のときに書きし文字いまに殘りてわれも崇(たふと)


 昭和40年(1965年)11月16日、水原秋桜子は九州の旅に出る。

   熊本城

小春日の楠立ち並ぶ宇土櫓

『殉教』

杉戸口門から出る。

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