元和3年(1617年)、小笠原忠真は信州松本城主より明石藩主となる。 元和4年(1618年)、宮本武蔵は明石藩主小笠原忠真の客分として明石に迎えらる。 元和5年(1619年)、小笠原忠真は明石城を築く。 寛永3年(1626年)、宮本伊織は15歳で小笠原忠真に仕える。 寛永9年(1632年)、小笠原忠真は豊前小倉に移封。 |
「肱を曲げて」は、『論語』(述而)の「子曰く、疏食(そし)を飯(くら)ひ水を飲み、肱を曲げて之を枕とす。楽しみ亦た其の中に在り。不義にして富み且つ貴きは、我に於いて浮雲の如し。」に拠る。 |
一、弘仁3年(812年)僧空海がここに楊柳寺を建てた。 一、仁和のころ(880年のころ)住職覚証が柿本人麿公の夢のおつげで人麿公を祀った。 一、明石築城後は城の守り神として祀られてきた。
兵庫県 |
貞亨5年(1688年)4月25日、芭蕉の猿雖(惣七)宛書簡の「古塚十三」の中に「人丸塚」がある。 |
嘉永4年(1851年)3月17日、吉田松陰は藩主に従って江戸に向かう途中、明石を経て大蔵谷に泊まる。 |
明石城中を經て大藏谷に宿す。驛傍中に人丸社あり、往いて觀る。碑あり、末に署して曰く、「明石城主松平日向守源信之立つ」と。 |
昭和10年(1935年)10月15日、高浜虚子は明石城で吟行会。 |
明石城吟行会。中崎、衝涛館にて披講。 豊かなる水の流や墨とんぼ 川水に映り羽ばたく墨蜻蛉 鶺鴒と石蕗と映れり城の壕 明石城裏壕の溝蕎麦あはれ |
昭和20年(1945年)6月3日、永井荷風は明石に着く。8日、明石城内を歩く。9日、空襲。 |
乃ち去つて城内の公園を歩む、老松の枯るゝもの昨夕歩みたりし遊園地の如し、されど他の樹木は繁茂し欝然として深山の趣をなす、池塘の風殊に愛すべし、石級を昇るに往徃時の城樓石墻猶存在す、眺望最佳きところに一茶亭あり、名所寫眞入の土産物を賣る、床几に休みて茶を命ずるに一老翁茶と共に甘いものもありますとて一碗を勸む、味ふに麥こがしに似たり、粉末にしたる干柿の皮を煮たるものなりと云、天守臺の跡に立ち眼下に市街及江灣を眺む、明石の市街は近年西の方に延長し工場の烟突林立せり。これが爲既に一二回空襲を蒙りたりと云、余の宿泊する西林寺は舊市街の東端に在るなり、 晴、午前九時比警報あり、寺に避難せる人々と共に玄關の階段に腰かけてラヂオの放送をきく、忽にして爆音轟然家屋を震動し砂塵を巻く、狼狽して菜園の壕中にかくれ纔に恙なきを得たり、家に入るに戸障子倒れ砂土狼藉たり、爆彈は西方の工場地及び余が昨日杖を曳きし城跡の公園に落ちたるなりと云、 |
明石城址 二句 汗垂れて鳶を聞くなり松隱れ 直はしる蜥蜴追ふ吾が二三足
『風切』 |