芭蕉の句碑


めにかゝる雲やしはしの渡鳥

JR総武線亀戸から葛西橋行きのバスに乗る。

亀戸では沢山いた乗客も終点葛西橋では2人だけ。


葛西橋から荒川を撮る。


立春の米こぼれをり葛西橋   波郷

葛西橋から富賀岡(とみがおか)八幡宮まで歩く。


富賀岡八幡宮


御祭神は応神天皇。

富賀岡八幡宮

 元八幡(富賀岡八幡宮)の名称は、一説によると、富岡八幡宮を最初に勧請した所で、寛永年間(1624〜1643)の初めに今の深川に移し、そのため、寛文5年(1665年)に旧地を元八幡と称したといわれています。

 この付近は松樹が生い茂り、前方は広大なる海面で、風光明媚な所であったといわれています。また、『江戸名所図会』や安藤広重の『名勝江戸百景』などにも当時の様子が描かれています。

拝殿の手前に芭蕉の句碑がある。


めにかゝる雲やしはしの渡鳥

句碑の前に御神籤(おみくじ)が結い付けられていて、正面から写真は撮れない。

『蕉翁句集』(土芳編)は「元禄七戌ノとし」とする。

文化2年(1805年)初秋に建てられたもの。

句碑の裏に「文化二乙丑年初秋建之」と刻まれている。

本所砂村 元八幡 境内

渡鳥塚

めにかゝる雲やしはしの渡鳥

小柴憚(暉)雄書

碑陰

 文化二乙丑年初秋建之


石田波郷は『江東歳時記』に元八幡(富賀岡八幡宮)のことを書いている。

 私はひそかに南砂町の工場街の真中の元八幡を訪ねた。境内の保育園の遊戯場の片すみに、芭蕉の句碑がある。

波郷が訪れた時と句碑の位置が変わっているようである。

煤煙の濃く淡く渡る鳥もなし

 元禄7年ごろの作といわれているが、7年は芭蕉の没年だから、江戸にいなかった。旅中の作か。「渡鳥集」所出。「芭蕉句選拾遺」に「めにかかる」と誤ったので「日にかかる」が正しい。日と目と誤記したのだろう。

『江東歳時記』(南砂町五丁目元八幡で)

元禄15年(1702年)11月、『渡鳥集』丈草跋。

宝永元年(1704年)、『渡鳥集』(卯七・去来編)刊。

 贈芭蕉翁御句文

十里亭の何がし、撰集の望み有。其名を『渡鳥集』とかいふなるよし。先師に此句有て、西花坊が笈の中に久しくかくし置ける。此度此名の相あへる事の尊とければ、贈りて此集の歓に備へける。

日にかゝる雲やしばしのわたりどり

『渡鳥集』

十里亭は長崎の俳人簑田卯七。去来の甥。

卯七の句

鶴も来て耕す人に交りけり

『享和句帖』(享和3年10月)

西花坊は各務支考の別号。

『蕉翁句集』(土芳編)も「目にかゝる」とする。

宝暦6年(1756年)、井筒屋寛治『芭蕉句選拾遺』刊。

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