すまでらの むかしを問へば 山桜 沙門良寛書 あなたこなたとするうちに、日くれければ、宿をもとむれども、ひとりものに、たやすくかすへきにしもあらねば、おとしつけて、 よしやねむ すまのうらわの なみまくら とすさみて、つなじき天神のもりを、たづねてやどる。里を去ること、一丁ばかり、松の林の中にあり。 春のよの やみはあななし 梅のはな いろこそ見えね、をりをりは よるのあらしに さそはれて すみのころもに うつるまで ほんのりにほふ。石どうろうの火ハきらめき、うちよするなみのこゑも、つねよりはしづかにきこゆ。 板じきのうへに、衣かたしきて、しばしまどろむかとすれバ、雲の上人とおぼしきが、うすぎぬに、こきさしぬきてして、紅梅の一技をもちて、いづこともなくきたりたまふ。こよひは花もよし、しづかにものがたりせんとて、うちよりぬるに、よるのことなれば、けはひもさだかにみえねども、ひさしくちぎりし人のごとくにおもひ、むかしいま、こゝろのくまぐまを、かたあかすかとすれば、ゆめはさめぬ。 ありあけのつきに、浦風の粛々たるをきくのみ。手を折て、うちかぞふれば、む月廿四日のよにてなんありける。 |
須磨は秋であった。・・・ ここが須磨寺だと康子が云った。池の水には白鳥が群を作って遊んでいた。雨がその上に静かに濺いでいた。池を廻て高い石段を登ると寺があった。・・・ 「あなた、生きている目的が分かりますか」 「目的ですか」 「生活の目的ではなく、生きている目的よ」 |
昭和59年(1984年)4月7日、弘法大師御入定千百五十年御遠忌に建立。 |
「須磨寺附近」は山本周五郎の全文学のなかで重要な作品である、これが文壇に登場した第一作であり、山本周五郎の筆名もこれにはじまるが、作品そのものにおいて作家としての資質、初心が明確あらわれ、その文学の原核がすでに顕在している。 この短編は大正15年4月号の『文藝春秋』に発表された。周五郎23歳、関東大震災の直後、しばらく住んだ須磨での体験が素材になっている。 周五郎が読者にあて遺書と思われる真筆を写し、また『須磨寺付近』の原文を抜萃して、こゝに記念とする。 |
須磨の昔と今とは随分変ってしまったが、その中でも須磨寺ほどとっぴに変った所が他に少なかろう。私が学生時代に来た時でも、境内の根上り松や、松の間に見える仁王門などが、古寺のさびた感じを残していたように記憶するが、まして芭蕉がここに選んだ頃は、木立もうっそうとした感じで、遙かな歴史を背景とした一種の神秘ささえ漂うていたのではないかと、その時の作―― 須磨寺やふかぬ笛聞く木下闇 この句からも想像される。
『随筆芭蕉』(須磨の夏朝) |
明治28年(1895年)7月22日から1ヶ月間、子規は「須磨保養院」で寮養。 昭和9年(1934年)9月、子規三十三回忌に青木月斗が建立。 |
須 磨 三句 灯ともさぬ村家つゞきの夜寒哉 蕎麥はあれど夜寒の饂飩きこしめせ 須磨寺の門を過ぎ行く夜寒哉 須磨寺 秋風や平家吊ふ經の聲 須磨にて 名所に秋風吹きぬ歌よまん
『寒山落木』(巻四) |
真紅な橋を渡った左手に桜寿院という寺がある。青い山を負う位置に子規の句碑が立っている。大きな自然石。 暁や白帆過ぎ行く蚊張の外 (中略) 句碑の書は、一眼見て子規の書であることがわかる。子規は、少年時代に、書を伯父の佐伯政房に学んだ。子規が若くして、本格的な字を書き得たのは、本格的に字を習ったからだ。 子規は画も巧みだった。書画一致。句碑の建立は昭和九年。
『句碑をたずねて』(浪華・兵庫) |
寿永3年(1184年)一ノ谷合戦の際、源氏の荒武者熊谷直実は、海上に馬を乗り入れ沖へ逃がれようとする無官大夫平敦盛を呼び返して、須磨の浜辺に組み討ちその首をはねた。平家物語が伝える最も美しく、最も哀しい有名な史話である。 敦盛は時に年16、笛の名手であった。その遺愛の青葉ノ笛は、今も当寺に伝えられている。 |
すま寺の淋しさ、口を閉ぢたる斗に候。蝉折・こま笛・料足十疋、見る迄もなし。この海見たらんこそ物にはかへられじと、あかしより須磨に帰りて泊る。
猿雖(惣七)宛書簡(貞亨5年4月25日) |
明和元年(1764年)8月、多賀庵風律は東国行脚の途上、須磨寺で「須广寺には青葉の笛熊谷か母衣弁慶か制札あり 」と書いている。 安永8年(1779年)、横田柳几は須磨寺で句を詠んでいる。 |
須磨にて 須磨寺や葉桜見ても竹見ても |
文化元年(1804年)8月19日、太田南畝は小倉に赴く途中で須磨寺を訪れている。 |
須磨寺みんとて案内のものを先だてゝゆけば、ゑもしれぬ事いひつゞくるもおかし。中にもおかしきは行平月見の松、同きぬかけ松、源氏のやしき跡などいふも、夢中の夢うらなひなるべし。すまの馬場先に重衡腰かけ松といへるあり。三位中將重衡庄野太郎家長にいけどられ給ひ、志ばらくいこはせ給ふ所なり。此とき里人濁酒をさゝけければ さゝぼろや波こゝもとをうちすきてすまでのむこそにこり酒なれ とよみ給ひしなど、だみたる聲にうめき出せるもおかし。 |
仁和2年(886年)、光孝天皇の勅命により開祖聞鏡上人須磨上野山福祥寺を建立。 |
大正11年(1922年)3月26日、高浜虚子は九州旅行の帰途、須磨寺の境内を散歩する。 |
木下氏も共々須磨寺の境内を散歩する。敦盛の首塚、義經の腰掛松、敦盛の首を洗つたといふ池、若木の櫻等を見て、須磨寺に參詣し、其處で木下氏に別れて、須磨停車場へ急ぐ。 |
昭和26年(1951年)9月14日、高浜虚子は星野立子と須磨寺へ。 |
九月十四日 須磨、保養院の跡を訪ひ、須磨寺小集 人恋し須磨寺の蚊にさゝれつゝ 須磨寺の鐘又鳴るや秋の暮 月を思ひ人を思ひて須磨にあり 秋風に散らばりし人皆集(よ)りし |
須磨浦公園を後にして須磨寺へと行つた時に、 この橋に記憶が突と法師蝉 と、助つたやうに其処に架つてゐた石の太鼓橋に覚えが あつた。随分昔になるが、十幾年の昔、神戸の玉藻句会 の時にこの橋で数人の人々と写真を撮つた。その写真の 橋が目の前に現はれたのであつた。 集まられた大勢の方々と一と句会。句帳から、 秋風や敦盛塚の大いさに 子規五十年忌子規身遠くに身近くに |
大正13年(1924年)6月から9ヶ月間、尾崎放哉は須磨寺大師堂の堂守として無一物の生活をしたそうだ。 大正15年(1926年)4月7日、放哉は41歳で小豆島の南郷庵にて死去。 |
青い山に向って、参道を進むと、石階の上に大本山須磨寺がある。その本堂の階下左手に、尾崎放哉の句碑が立っている。自然石に こんなよい月をひとりで見て寝る (中略) この句を荻原井泉水が書いている。「こんなよい」というところなど、極めて自由な思いのままの書き振りだ。 法学士の放哉は須磨寺の寺男となっていた。そのゆかりを以て、昭和三十四年、この地に句碑がたった。句碑を離れて二、三歩のところに稚い梅の木があって、そんな木に実が生っていた。そのことが印象的だった。
『句碑をたずねて』(浪華・兵庫) |
熊谷直実は敦盛を打ちたる後この池にてその首を洗ひつ。義経の首実検に供す。側に西月の句碑あり。 |
義経卿此の松樹に腰を掛けて敦盛卿の首を実検せりと伝う。以て一名首実検の松とも云う。 |
○須磨寺 堂前に神宮皇后の釣竿あり義經の腰かけ松あり 須磨寺や松竹の葉も幾かはり |
敦盛卿の御首を埋葬す。 敦盛卿は首と胴とを別々に埋葬せしものにて、胴塚は其討死の場所たる一の谷にあり。 |
廿五日、攝州須磨寺 須磨寺の松の木の葉の散る庭に飼ふ鹿悲し聲ひそみ鳴く 須磨敦盛塚 松蔭の草の茂みに群れさきて埃に浴みしおしろいの花 |
謡曲「敦盛」は、戦乱の巷では敵であった者同士が、極楽浄土で共に成仏する運命になった事を主軸にして作曲された修羅物である。 一の谷の戦いで少年敦盛を討った熊谷直実は、無常を感じ出家して蓮生と改め、菩提の為古戦場を尋ねると、敦盛の霊は草刈男の姿で現れて迎える。蓮生はひたすら回向を続けまどろむ夢の中に、花やかな姿で現れた敦盛が、一門没落の運命の中にも忘れかねる歓楽の日々があった事や、戦いの有様を物語り、敵蓮生の日々の回向に感謝し、共に極楽往生の出来ることを喜びつつ消え去るのである。 直実は、義経の首実験の後、許しを得て遺品「馬・甲・冑・弓矢・青葉の笛」と共に、戦死の有様を書き添えて父経盛に送った。懇ろに弔われた「敦盛首塚」は今も人は絶えない。
謡曲史跡保存会 |
昭和59年(1984年)、弘法大師千百五十年御遠忌、当山開創千百年、平敦盛卿八百年遠忌を記念して再建。 |