俳 書
『笈の小文』
貞亨4年(1687年)10月25日、亡父三十三回忌の法要に参列するために江戸深川を出発し、貞亨5年(1688年)8月末に江戸に戻るまでの旅で詠まれた句を集めたもの。卯辰紀行。芳野紀行。
芭蕉死後、大津の門人川井乙州によって編集された。
宝永6年(1709年)、刊。
心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。
10月11日、其角亭で送別句会する。
其角住居跡
神無月の初、空定めなきけしき、身は風葉の行末なき心地して、
岩城の住、長太郎と云もの、此脇を付て其角亭におゐて関送リせんともてなす。
此句は露沾公より下し給はらせ侍りけるを、はなむけの初として、旧友、親疎、門人等あるは詩歌文章をもて訪ひ、或は草鞋の料を包て志を見す。かの三月の糧を集に力を入ず。紙布・綿小などいふもの、帽子したうづやうのもの、心々に贈りつどひて、霜雪の寒苦をいとふに心なし。あるは小舟をうかべ、別墅にまうけし草庵に酒肴携来りて行衛を祝し、名残をおしみなどするこそ、故ある人の首途するにも似たりと、いと物めかしく覚えられけれ。
露沾は磐城平藩主内藤風虎の次男義英。
飛鳥井雅章公の此宿にとまらせ給ひて、「都も遠くなるみがたはるけき海を中にへだてゝ」と詠じ給ひけるを、自かゝせたまひてたまはりけるよしをかたるに、
三川の国保美といふ処に、杜国がしのびて有けるをとぶらはむと、まづ越人に消息して、鳴海より跡(後)ざまに二十五里尋かへりて、其夜吉田に泊る。
あま津縄手、田の中に細道ありて、海より吹上る風いと寒き所也。
保美村より伊良古崎へ壱里斗も有べし。三河の国の地つゞきにて、伊勢とは海へだてたる所なれども、いかなる故にか、『万葉集』には伊勢の名所の内に撰入られたり。此州崎にて碁石を拾ふ。世にいらご白といふとかや。骨山と云は鷹を打処なり。南の海のはてにて、鷹のはじめて渡る所といへり。いらご鷹など歌にもよめりけりとおもへば、猶あはれなる折ふし、
熱田神宮
蓬左は熱田神宮の西隣の地域。現在の名古屋市熱田区。
ある人の会
ためつけて雪見にまかる紙子かな
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いざ行かむ雪見にころぶ所まで
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「ためつけて」の「ある人」は、名古屋の「昌碧亭」。「いざ行かむ」の「ある人」は、夕道(せきどう)のこと。夕道は名古屋の書肆風月堂主人。通称は孫助。
「桑名より食はで来ぬれば」と云日永の里より、馬かりて杖つき坂上るほど、荷鞍うちかへりて馬より落ぬ。
歩行ならば杖つき坂を落馬かな
と物うさのあまり云で侍れ共、終に季ことばいらず。
宵のとし、空の名残おしまむと、酒のみ夜ふかして、元日寝わすれたれば、
二日にもぬかりはせじな花の春
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初春
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春たちてまだ九日の野山哉
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枯芝ややゝかげろふの一二寸
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伊賀の國阿波の庄といふ所に、俊乗上人の旧跡有。護峰山新大仏寺とかや云、名ばかりは千歳の形見となりて、伽藍は破れて礎を残し、坊舎は絶えて田畑と名の替り、丈六の尊像は苔の緑に埋て、御ぐしのみ現前とおがまれさせ給ふに、聖人の御影はいまだ全おはしまし侍るぞ、其代の名残うたがふ所なく、泪こぼるゝ計也。石の連(蓮)台・獅子の座などは、蓬・葎の上に堆ク、双林の枯たる跡も、まのあたりにこそ覺えられけれ。
丈六にかげろふ高し石の上
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さまざまのこと思ひ出す櫻哉
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「丈六」は、釈迦の身長が1丈6尺(約4.85メートル)あったというところから、1丈6尺。また、その高さの仏像。
伊勢山田
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何の木の花とはしらず匂哉
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裸にはまだ衣更着の嵐哉
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菩提山は朝熊山の西麓にあった伊勢の神宮寺。荒廃していたそうだ。
野老(ところ)はヤマノイモ科のつる性多年草。根茎は太くひげ根を多数出し、これを老人のひげに見たて「野老」の字をあてる。オニドコロ。トコロズラ。新年の季語。
『泊船集』(風国編)には「荻の」とある。『蕉翁句集』(土芳編)は「萩の」と誤る。
彌生半過る程、そヾろにうき立心の花の、我を道引枝折となりて、よしのゝ花におもひ立んとするに、かのいらご崎にてちぎり置し人の、いせにて出むかひ、ともに旅寐のあはれをも見、且は我為に童子となりて、道の便リにもならんと、自万菊丸と名をいふ。まことにわらべらしき名のさま、いと興有。いでや門出のたはぶれ事せんと、笠のうちに落書ス。
万菊丸は流刑中の杜国。
旅の具多きは道ざはりなりと、物皆払捨たれども、夜の料にと、かみこ壱つ、合羽やうの物、硯、筆、かみ、薬等、昼餉なんど物に包て、後に背負たれば、いとヾすねよはく、力なき身の跡ざまにひかふるやうにて、道猶すゝまず、たヾ物うき事のみ多し。
跪(きびす)はやぶれて西行にひとしく、天龍の渡しをおもひ、馬をかる時はいきまきし聖の事心にうかぶ。山野海浜の美景に造化の功を見、あるは無依の道者の跡をしたひ、風情の人の実をうかがふ。猶栖をさりて器物のねがひなし。空手なれば途中の愁もなし。寛歩駕にかへ晩食肉よりも甘し。泊るべき道にかぎりなく、立べき朝に時なし。只一日のねがひ二つのみ。こよひ能宿からん。草鞋のわが足によろしきを求んと計は、いさゝかのおもひなり。時々気を転じ、日々に情をあらたむ。もしわづかに風雅ある人に出合たる、悦びかぎりなし。日比は古めかし、かたくなゝりと、悪み捨たる程の人も、辺土の道づれにかたりあひ、はにふ・むぐらのうちにて見出したるなど、瓦石のうちに玉を拾ひ、泥中に金を得たる心地して、物にも書付、人にもかたらんとおもふぞ、又是旅のひとつなりかし。
衣 更
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一つぬいで後に負ぬ衣がへ
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吉野出て布子賣たし衣がへ
| 万菊
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招提寺鑑真和尚来朝の時、船中七十余度の難をしのぎたまひ、御目のうち塩風吹入て、終に御目盲させ給ふ尊像を拝して、
東須磨・西須磨・浜須磨と三所にわかれて、あながちに何わざするともみえず。藻塩たれつゝなど歌にもきこへ(え)侍るも、いまはかゝるわざするなども見えず。きすごといふうをを網して眞砂の上にほしちらしけるを、からすの飛来りてつかみ去ル。是をにくみて弓をもてを(お)どすぞ、海士のわざとも見えず。 若古戦場の名残をとゞめて、かゝる事をなすにやと、いとゞ罪ふかく、猶むかしの恋しきまゝに、てつかひが峯にのぼらんとする。導きする子のくるしがりて、とかくいひまぎらはすをさまざまにすかして、麓の茶店にて物くらはすべきなど云て、わりなき躰に見えたり。かれは十六と云けん里の童子よりは四つばかりもをとをと(おとうと)なるべきを、数百丈の先達として、羊腸険岨の岩根をはひのぼれば、すべり落ぬべき事あまたゝびなりけるを、つゝじ・根ざゝにとりつき、息をきらし汗をひたして漸雲門に入こそ、心もとなき導師のちからなりけらし。
かゝる所の穐なりけりとかや。此浦の實は、秋をむねとするなるべし。かなしさ、さびしさいはむかたなく、秋なりせば、いさゝか心のはしをもいひ出べき物をと思ふぞ、我心匠の拙なきをしらぬに似たり。淡路嶋手にとるやうに見えて、すま・あかしの海右左にわかる。呉楚東南の詠もかゝる所にや。物しれる人の見侍らば、さまざまの境にもおもひなぞらふるべし。
又後の方に山を隔てゝ、田井の畑といふ所、松風・村雨のふるさとゝいへり。尾上つヾき、丹波路へかよふ道あり。鉢伏のぞき・逆落などおそろしき名のみ残て、鐘懸松より見下に、一ノ谷内裏やしきめの下に見ゆ。其代のみだれ其時のさはぎ、さながら心にうかび俤につどひて、二位のあま君皇子を抱奉り、女院の御裳に御足もたれ船やかたにまろび入らせ給ふ御有さま、内侍・局・女嬬・曹子のたぐひさまざまの御調度もてあつかひ、琵琶・琴なんどしとね・ふとんにくるみて船中に投入、供御はこぼれてうろくづの餌となり、櫛笥はみだれてあまの捨草となりつゝ、千歳のかなしび此浦にとヾまり、素波の音にさへ愁多く侍るぞや。
貞亨5年(1688年)4月23日、芭蕉は西国街道を東進して、京に入る。
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