井師座下 | 二十七日昼 放哉生 |
今日ハ旧ノ十一月十一日、新ノ十二月二十六日卜云フ日……此ノ日、朝カラ妙二風呂ニハイリ度イ気持ガ出テ来タ、可笑シイ事ダナと思ふ、(或ハ新年ガ近イカラ、旧イ習慣ガ、ソンナ気ヲサセタノカ)正ニ決シテ威張ルワケデモなんデモナイガ、這入リ度イ気持ガ今迄ハ出テ来なんだノデスヨ、……ソレガ、今朝カラノ気持! 正ニ四ケ月目ノ入浴也、午後三時頃カラ、ワクと云ふから、アゴヒゲと口ヒゲとヲ、ゴク短カク、ハサミデ刈ツテ、……頭モ大分、後頭部ハノビテ居ル様ダガ……コレハ此儘止して、扨、銭湯に行く、早いから二三人シカ居らぬ……湯銭参錢也、全くよい気持になつて……四ケ月ブリのよい気持になつて、(エライもんだ、手も足も、白くなりましたよ)帰庵しました、扨、其ノ銭湯で、姿見ニ、私ノカラダヲ久しぶりニウツシテ見テ、實に驚いたの、ナンノつて……マルデ骨と皮也、私ノ「顔」ハ、昔カラ、病気シテ長ク寝テ居テモヤセナイ顔ナンデス、之デハ、十貫目モアルマイ、(十四貫近クアツタノダガ)……痩セタリナ痩セタリナ、コレデハ到底、コレカラ、肉体労働ハ出来ヌ、只、カウシテ座つて、掃き掃除位サセテモラツテ、早く死ぬこと早く死ぬこと、と思ふと、全く自分乍ラ、アキレ過る程、ヤセタヤセタ、驚き申候」(下略) |
川端康成の最後の作品となった小説「隅田川」の中に左の短い問答が書かれている。東京駅の通路で不意に街頭録音のためのマイクロフォンを突きつけられ、季節の感じをひとことふたことで言って下さいと言われた川端氏が咄嗟に、 「咳をしても一人」と答えた。 「なんと言ひましたか」 「俳句史上もっとも短かい俳句だそうです」と。 右について評論家山本健吉は次の所感を述べている。 一度聞いただけで胸のなかに滲みこみ、何かの機会にひょつとつゞ衝いて出でくるような俳句がある。放哉の●せきをしてもひとり●という句はまさにそれで折にふれて川端さんの口を衝いて出てきた句であろう。」 ここで日本の代表的作家と評論家の関心を呼んでいる短かい俳句とその句の作者は尾崎放哉で不世出な一俳人のことである。 放哉・尾崎秀雄は明治18年(1885)鳥取市に生まれ東京帝大学法学部を卒業、社会人としても保険会社支配人にまで栄達したが、大正12年(1923)39歳の時、感ずるところあって一切を捨て去り無一物の生活にはいった。俳句を荻原井泉水に学び、俳句的すべての制約を超越した自由律俳句を極めて独自の短律俳句を完成し、いまや日本文学史上に不滅の光芒を放つ存在となった。 大正15年4月7日、此の地西光寺奥之院南郷庵にて没した。
村尾暮樹
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放哉觀月 一二記 大正十四年が夏一日放哉坊浴衣一枚扇子一木風呂敷包ミ一つを持ちて飄然として来りわが小豆島に安住の地をば求めんという迂生一句 あたままろめて来てさてどうする 相顧りみて呵々大笑 |
尾崎放哉(本名 秀雄)は大正時代の俳人 鳥取市立川町に明治18年(1885)1月20日生まれる 鳥取一中 一高 東大法学部卒 保険会社に勤めたが、大正12年(1923)から放浪生活に入る 先輩荻原井泉水の世話で小豆島の井上一二(文八郎)を頼って来島し 西光寺杉本玄々子(宥玄)の好意で奥院南郷庵(みなんごあん)の庵主として居住 大正14年8月から同15年4月7日入寂までの8ヶ月間 自由律俳句200余句をつくり 人々に感動をあたえている うしろの山の西光寺墓地の五輪塔に「大空放哉居士」は眠る |
「いれものがない両手でうける」の 句碑立つ。井泉水氏の筆なり 言わかぬ遍路と群れて句碑を見る 老遍路拝みて読まぬ句碑かなし 庵後の墓に詣づ 孤り生きし人の墓なり蟻ひとる 道の辺にこぼれ咲く菜をささげむか 蛙つぶやく輪塔大空放哉居士
『帰心』 |
昭和3年(1928年)7月と同14年(1939年)10月、種田山頭火は 放哉墓参に訪れている。 昭和43年(1968年)11月、山口誓子は小豆島を訪れている。 |
小豆島 放哉と僧墓似たり凍も似る
『一隅』 |
昭和44年(1969年)6月、阿波野青畝は小豆島吟行。 |
放哉の終焉の島藷を挿す 活着の藷の畠を雉荒す
『旅塵を払ふ』 |
翌は元日がくる仏とわたくし | 放哉 |
為ることはこれ松の葉を掃く | 井泉水 |