立子句碑

未刊句日記

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昭和23年(1948年)

 七月十一日、玉藻勉強会。(百合、滝)。

 今日から四日続けて勉強会をすることになつた。学校廻りを目的としてまづ学習院へ行く。院長の安部能成さんの院長官舎の応接間を拝借して句会場とする。

  ホツケーの球の音叫声炎帝

 八月二十五日、信州の上林温泉に句謡会で出かける。
塵表閣といふよい温泉宿に二泊。地獄谷へ向つて少し行
つたが途中引返し句会。

  ほとばしる秋水おほふ道の草

  去に支度せるは女や大根畑

 十月四日。剣崎燈台へ。十一時濱に御迎が見えて父と一緒に雨後の晴間の美しい空の下を。逗子を過ぎ、前月三笠宮様の御招きで伺つた立石の御茶屋の前も通り過ぎて車はやがて三崎へ行く道から岐れ、左へ昔の要塞地点をドライブ。燈台の人々が秋草に埋れるやうな門前に私共を出迎へて下さる。

  花芒美しき時来しと記す

 一望の秋の海はまだ青黒い色を湛へて荒れ気味に見え
た。すだく虫の音と濤音ばかりがきこえ、もの淋しい。
此処に住む人のことを考える。

 十一月三日。二尊院に出来た父の句碑の除幕式の日で
ある。初子さんも一緒に出かけられたが少し時雨れかゝ
つて来たので除幕式が終つてあと早くおかへしする。

  除幕式かくて終了薄紅葉

  両三度きゝし話よ紅葉寺

  薄紅葉美しき時句碑建ちし

 天龍寺での句会は大雨の中をよくも斯んなに大勢集ま
られたと驚ろく参会者であつた。法筐院に泊る。

 十一月十四日。日本の燈台の八十周年の祝に、観音埼
燈台
で俳句会が催された。美しい小春日和であつた。早
や椿がまつ赤に燈台へゆく山路にぽつぽつ。ゆるやかな
山路を左手に海を見ながら登る。

 大会無事終了。大会は選のみであつた為その後を少人
数で触目一ト句会。

  来し道の記憶さまざま石蕗の花

  部屋暖し外は風寒し人呼ばな

 十一月二十九日。東京玉藻句会、東大内の山上御殿に
集る。美しい落葉する日であつた。三四郎池に散り込む
落葉はいつまでも見てゐても倦きなかつた。

  部屋広し日向ぼこりの処得ず

  漸くに処を得たり日向ぼこ

昭和24年(1949年)

 四月二十七日。宿にて句謠会。

  温泉の婢らかまびすしさよ夜半の春

 曇つていた空も九時頃になると音を立てゝ降りはじめ
て来た。

  加賀屋にて句謠会あり余花の雨

  引鴨に又人声の窓辺かな

  この窓に燕見しは今朝のこと

 輪島を発つて中島に向ふ。車中、

  能登三井とよみて遅日の停車場

 中島著。蓮浄寺大夜庵に落ちつき一ト句会。水芭蕉と
いふ珍らしい花が床に生けてあつた。

 五月一日。石川県北安田の明達寺は暁烏非無師の処で
あつて、私共一行は前日の夕刻に金沢から自動車で明達
寺に非無師を訪れたのであつた。病気ときいてゐた野本
永久さんも元気を出して私共を出迎へられた。

 翌朝早く起きて、貼れ渡つた朝空にそびえた境内の大
樹に鳴く鳩の声をきいた。

  更衣おくれつゝまだ旅にあり

 五月二十三日。青森の高木を訪ねて、父、宵子と三人
で行つた。その一日、浅虫温泉に行く。夜の手揃いもた
れて美しい浅虫の海を眺め一日たのしく過す。軒に燕の
巣があつて、一羽が立つと海の上迄遠く飛んで行き、見
えなくなつたと思ふと不思議に思ふ程私の思ふ通りの方
向から又巣に飛び戻つて来るのであつた。

  わが心海かへしくる燕

  浅虫のとある別墅の舟あそび

 十月十九日。前日平和号で大阪へ、神戸へドライブ、
黒潮丸に乗船、土佐へ。大分揺れた処もあつたが土佐沖
は穏かで快晴であつた。唄で聞いたことのある桂浜。坂
本龍馬の像。港では大勢の人達に出迎へられた。

  秋晴とコスモスその他待ちくれし

 自動車にのせられて高知城へ。丁度お堀の蓮を刈つて
ゐる処であつた。穂芒が美しい。

 同行した人数は大勢であつたが宿が夫々別で私共は筆
山荘といふ宿にきめられる。

  旅先に別れて逢ひて秋の風

 十月二十日。快晴。父の少年の頃、京都の学校に行つ
てゐた時の学友の林並木さんが居られる処へ父と姉と私
がゆくことになる。案内役に松本かほるさんが同乗され
て自動車で二時間ばかり。山を越えたやうに覚えてゐる。
その前に途中伊野といふ所で紙漉の工場を見学する。

 高知の駅の前が大火であつたさうでまだ水だらけの中
を過ぎる。一面に焼けてしまつた広地を不思議な心持で
見る。車はそのまゝ町を過ぎて、父の句碑のあるところ
へ。風がだんだん寒くなり、日は落ちてしまふ。とつぷ
り暮れた中を提灯に迎へられて要法寺といふ私共の宿の
川向ふの森の中のお寺へ著くと、大勢の玉藻の会員達が
投句を急いで私達の帰りの遅いのを氣づかつて待つてゐ
てくれた。

 十月二十一日。二泊の高知に別れをつげて、丸亀へ。
丸亀城跡に登り、町を眺め、句を作り町中の一堂に集つ
て句会でなく土地の方々にお目にかゝり挨拶し、私共丈
自動車で琴平へ直行。他の一行は汽車で。

 先年おなじみの合田丁字路さんのさくら屋へ投宿。未
亡人となられた丁字路さんの母堂に久々の挨拶をし、く
つろいで大勢で夕食の膳につく。

 十月二十二日。琴平から多度津に出て汽車で波止浜へ
向ふ。高原の秋日に風が強い日であつた。土佐阿波ざか
ひも過ぎ歩危にさしかゝる。このあたりにも人は住むの
かと思はれるやうな渓谷である。薄紅葉が美しい。

  大歩危のやがて小歩危と濃もみぢに

  秋深き歩危の水辺の小舟かな

 十月二十三日。早く目ざめる。

  朝寒や起きて用なき旅の身に

 絵はがきで家やその他へ旅だよりを書く。

 十時五十分波止浜出発、十二時松山著、道後の大和家
別館へ。宿の玄関に這入ると、岡田禎子さんが待ってゐ
てくれた。

 十月二十五日。早朝道後を発つて高浜港へ。私の幼い
頃――八つの時――海水浴をした記憶のある梅津寺海岸
を通る。

  梅津寺駅もなつかし秋の蝶

 高浜港からるり丸に乗つて別府に向ふ。津野事務長に
久しぶりで逢ふ。船少し揺れる。

昭和25年(1950年)

 三月十九日。父の喜寿のお祝をホトトギスの同人で丸
ビル精養軒に催した。遠く北海道、九州からと熱心な
人々も集つた。

 バスの人達を滝の前で待つて父を待たせて滝の近く迄
行つて見たりした。滝風がものすごく吹く。

  滝落つる岩膚あらはなるときも

 もとの処に戻つて又暫らく滝を見る

  風やんで今滝音や耳澄ます

 其処を出て、少し坂を登つて行くと日が暑くて桜の大
木の下に涼をとつては休み、又歩く。

 土産店では硯石を沢山に売つてゐた。

 青岸渡寺といふお寺に著いて其処で中食、句会。八十
二歳の中森亮順師が出て来られて御挨拶をする。那智の
聖と呼ばれてゐる高僧で、親しみ深い方であつた。

  裏川や落花の堰となりゐたり

 部屋からも遠く滝が望めた。

 十二月二十四日。鎌倉玉藻句会。材木座の光明寺で中々大勢の集りとなつた。榾と霜の兼題もあり寒いので外に出ずにゐる。

  霜の夜のどこまで冷ゆるわが身かな

  夜々そだつ霜に此処なる生活あり

  北風に立つ我に人ものみだか

  我為さねば片づかぬとや寒きこと

昭和26年(1951年)

 六月二十一日。伊東の米和歌荘が温泉宿をはじめるさ
うで、その開業前の一日、招かれて父について一泊。

 もと蜜柑畑であつた処を広げて建てたといふこの宿は、
庭に小高い山があつたり、数本残された蜜柑の木等で
中々よい。まづすぐに温泉に入る。宿の浴衣を著て庭に
出て見る。

  温泉を出でゝ汗かわく間も話しつゝ

  夏薊夏萩さかせ庭出来し

  一本の夏木大木やまももとか

  七面鳥抱きて茂りを庵主来る

  温泉涼し米和歌荘ときけばなほ

 此度の旅は、松山で行はれる子規五十年祭に列席する
為であつた。そして今日神戸に来たのは、子規が療養生
活をした須磨の保養院と、保養院に入る前に入院した神
戸病院の跡などを見る為であつた。

 楠町に再建されたつゝじ居を訪ね、つゝじさんの案内
で神戸病院跡へ自動車を駆つた。それから須磨へ。其処
にも今は保養院は全然なく、須磨浦公園といふ処に僅か
に昔の面影がある(と父が言ふ)丘に松林が残つてゐる
位で、つゝじさんの説明に依ると、保養院跡といふのは
一の谷側であらうと思はれた。

 一の谷には敦盛塚といふ史蹟があつた。敦盛の墓とい
つて大きな昔風の墓石は印象深かつた。

 順々に次から次からと父のあとに従いて、父の古い記
憶を呼びさまさせてゐる父の感情に私は多少とも仲間入
りする事は出来たやうに思ひながらも、俳句を作ること
の斬うした時のむつかしさを泌々と味はつた。

 須磨浦公園を後にして須磨寺へと行つた時に、

  この橋に記憶が突と法師蝉

と、助つたやうに其処に架つてゐた石の太鼓橋に覚えが
あつた。随分昔になるが、十幾年の昔、神戸の玉藻句会
の時にこの橋で数人の人々と写真を撮つた。その写真の
橋が目の前に現はれたのであつた。

 集まられた大勢の方々と一と句会。句帳から、

  秋風や敦盛塚の大いさに

  子規五十年忌子規身遠くに身近くに

 九月十六日。六時四十分高浜港に著く。道後の鮒屋へ。
去年来た時は鮒屋は進駐軍の常宿になつてゐて、私等は
泊ることが出来なかつたのであるが、今度は又以前の通
りに戻つてゐた。若いお神さんが表立つて働いてゐるの
が違ふ丈で、あとはあまり以前と変化はない。やがて先
代のお神さんが出て来て挨拶をする。

 石手寺を出て明楽寺(玉川町二丁目)へ濱家の墓詣、
蓮福寺へ池内家の墓詣。途中、子規の歌碑のある中の川
の処に車をとめて、昔父の家と子規の家との隣り合せに
住んだ辺りを見て歩く。柳原極堂翁を見舞ひ、お築山に
父の御両親、兄上達のお墓へ参る。此処は私にも親しみ
のある墓所で暫らくみなで佇んでゐた。

その夜、宿の二階で美しい十六夜の月を眺めた。

  月此処に十六夜となり道後の温泉

  月昇るしきりにきこゆ鉦叩

昭和27年(1952年)

 四月十三日。雨もよひの中を貫之の墓のある処へ行く
ことになる。其処には先年父の句碑も建つたのである。
「土佐日記ふところにあり散る桜 虚子」

  春雨の降りみ降らずみ句碑を見る

  句碑を見に来し春雨の降る中を

  旅人我貫之桜葉桜に

  貫之の花のうてなの散る石に

 国分寺へまはる。土塀の下が石垣になつてゐて、咲き
残る椿がまことに美しい。四国二十九番札所とある。止
手紙といふものを見る。七ヶ処遍路は小ぎれいな人々が
多い。

  又来たる七ヶ所遍路女連れ

 三時四十分発でなつかしい高知と別れ琴平へ。さくら
に合田御夫妻のおもてなしにあまえて一泊。

 四月十五日。高松から水橋たりほさんのお迎え。車に
のつて屋島へ連れて行つて頂く。

 高知の暖かさにくらべると中々寒い。

  山上の春風寒し佇める

  春風に松美しき屋島かな

  北嶺の松の緑を水へだて

 高松の金星館に一時半著。土地の俳人方に逢ひ中食。
句会。栗林公園へ。

  安木節躍るせつせつ余花の下

 花見客で賑やかである。掬月亭のあたりに休んで静か
に今夜四国を去る心持になつてゐる

  春惜しむ別れを惜しむことに今は

  菖蒲の芽流るゝ水の浅く急

 五月二十一日。六時目覚め、七時起床。快晴。庭さき
がすぐに琵琶湖である。下駄をはいて湖べりまで行つて
見る。舟に乗るつもりでゐたのに舟が故障で引き返す。

  諸子網鮒網といひ晴れ渡り

 ゆうべ堺の辻本さんから電話で帰途に福助足袋の工場
へお立寄りすることが約束されたのであつた。初めての
高野山であるから案内されるまゝに奥の院へもゆき、父
の句碑も見地蔵院も訪ね、普賢院では池内の伯父の法要
も願ひ、大門の方へも行つて見た。

 早寝の父の静かになつていまつた後を句会。

  追々と減りゆく人数夜の秋

 九月二十七日。ツバメ号にて西下。車中、持つて出た
手紙の整理をしてゐるうちに米原に著く。米原から北陸
の方へ汽車乗り換へ。

  とんねるの多しと告げぬ汽車残暑

  まだ旅の心となれず汽車残暑

 大聖寺下車、自動車で山中温泉へ。

  一ト昔偲ぶよすがの山は秋

  思ひ出も今秋の川秋の山

 山中温泉、かじか荘。

  地下室の二階三階秋灯

 九月二十九日。三国へ。東尋坊

  大時雨ゆかせて立てる百姓等

 十一月七日。午前中、門司の和布刈神社へ吟行。午後、
父達の待つ別府へ。その夜句会。

  和布刈岩十一月の潮流れ

  旅先に別れて逢ひて秋灯火

  旅早やも十一月の七日も夜

 十一月八日。城島高原、句碑除幕式。

  紅葉よしこの山この山又次の山

 十一月十日。立太子の日、秋晴。四極山万寿寺別院
て句謡会。

  落葉降る一人淋しくなりにけり

  分け入れば楓紅葉もあまたありし

  風呂敷に羽織入れあり紅葉冷え

  菊日和われ等敬愛の日の皇子に

 十一月十一日。城島高原を経て由布院から乗車、日田
下車、バスにて途中杖立温泉に中食、小国町へゆく。小
国より猶ほさきにゆき大観峰に上つて阿蘇五岳を望む。
再び小国へ戻り笹原耕春居に泊る。

  笹叢に梅鉢草の花らしも

 十一月十二日。昨夜、若草会、早蕨会、笹鳴会の人々
に逢ふ。小国町の人々集りて句会。

  夜稲刈までして我等またれしと

  とうとうと澄みて流れて静川

  芋水車かくる所を見にゆかな

  芋水車かつぎ土橋をすたすたと

 十一月十三日。九時半、雨の小国を発つ。大観峰の下
を過ぎる頃濃霧。自動車を下りて竜胆、野菊、梅鉢草を
摘む。内牧の小島偉邦居にゆき神前にさきほどの花を捧
げる。偉邦居で句会。大勢集る。

  霧の中此処に別れの竜胆つむ

  りんだうを摘まんと霧の中を歩す

 熊本へ。江津荘泊。

 十一月十四日。江津湖畔湖の中村汀女さんの母君を訪ね、
楽しく話し合ふ。

  石蕗も咲き静かな庭と帰り告げん

 水前寺熊本城などを見る。公会堂で俳句会後、釣耕
園といふ庭の美しいところを見る。

  ませ垣を過ぎて紅葉の下ゆくも

  大勢の散り立ち似合ひ庭紅葉

 十一月十五日。熊本を発ち福岡へ。坊城俊厚、中子、
都子一家を訪ねる。都子を見て高を想ふ。

  わが孫は遠く家にあり菊を見る

 都督府古址を訪ね、花鳥山仏心寺を訪ね、太宰府で俳
句会。

  紅葉行遠きものほど親しまれ

  在りし日の久女も斯くや山紅葉

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