蕉 門

窪田猿雖

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伊賀上野の富商。通称は惣七郎。屋号は内神(うちのかみ)屋。別号に意専。

猿雖 伊賀上野ノ人。意専ト号、延寶三年(イツハリカ)ヨリ東武カへルヲ惜、此所大連、内神屋惣七郎、六太夫、入道シテ意専、氏ハ窪田屋、西麓菴ト号ス、寶永元甲申十一月十日、卒、正宗寺ニ葬ル。國府來書

『蕉門諸生全伝』(遠藤曰人稿)

 寛永17年(1640年)、伊賀上野に生まれる。

 貞亨5年(1688年)4月25日、芭蕉の「猿雖宛書簡」がある。

丹波市、やぎと云所、耳なし山の東に泊る。

   時鳥宿かる頃の藤の花

と云ひて、なほおぼつかなきたそがれに哀れなるむまやに至る。

この海見たらんこそ物にはかへられじと、あかしより須磨に帰りて泊る。

廿一日布引の瀧に登る。山崎道にかゝりて、能因のつか・金龍寺の入相の鐘を見る。「花ぞ散ける」といひし桜も若葉に見えて又お(を)かしく、山崎宗鑑屋舗、近衛どのゝ、「宗鑑がすがたを見れば餓鬼つばた」と遊しけるをおもひ出て、

   有難きすがた拝まんかきつばた

と心の内に云て、卯月廿三日京へ入。

 元禄2年(1689年)、出家して俳諧に専念。

 元禄2年(1689年)3月、芭蕉の「猿雖宛書簡」がある。

 去年の秋より心にかゝりておもふ事のみ多ゆへ、却而御無さたに成行候。折々同姓方へ御音信被下候よしにて、申伝へこし候。さてさて御なつかしく候。去秋は越人といふしれもの木曽路を伴ひ、桟のあやうきいのち、姨捨のなぐさみがたき折、きぬた・引板の音、しゝを追すたか、あはれも見つくして、御事のみ心におもひ出候。とし明ても猶旅の心ちやまず、

   元日は田毎の月こそ恋しけれ    はせを

 元禄4年(1691年)11月1日、芭蕉は江戸に到着。

 元禄5年(1692年)3月23日、芭蕉は意専に手紙を出している。

刈葱の酢味噌、躑躅の浸し物先づ思ひ出でられ、京屋が句に案じ入りたる重き顔つき、土芳が軽口、なつかしきものの初めにて候。

 元禄7年(1694年)、芭蕉が猿雖方で詠んだとされる句がある。

柴附し馬のもどりや田植樽

○此句ハ猿雖方ニ遊テノ事也。


『芭蕉句選拾遺』には「元七戊 藏田氏に遊びての事也。」とある。

芭蕉の句碑


柴つけし馬のもとりや田植たる

 元禄7年(1694年)7月28日、猿雖亭で歌仙。

 成七月廿八日猿雖亭

   夜 席

あれあれてすゑは海行野分哉
   猿雖

鶴のかしらをあぐる栗の穂
   芭蕉


 元禄7年(1694年)9月22日、惟然の意専宛書簡がある。

尚々御無事の段承りたく奉存候、爰もと折々の會にて風流のみに候、以上先月ははじめて罷越、ゆるゆる得貴意、大慶に奉存候、色々預御馳走、御懇意の御事ども忝奉存候、翁彌御無異にて奈良一宿仕、重陽の日に大坂着仕候、

   翁

菊に出て奈良と難波は宵月夜

此御句にて會など御坐候、其元彌御無事に被成御坐候哉、御句など少々承たく候、先日奈良越にて、

近付きになりて別るる案山子かな

錢百のちがひが出来た奈良の菊

右兩句いたし申候、御聞可被下候、土芳丈望翠丈どれどれ様へも可然様に御心得被成可被下候、如何様ふと罷越、萬々可得貴意候、京都にて高倉通松原上ルつづらや町笠屋仁兵衛店にて素牛と御尋被下候へば相知れ申候、何時にても風流の御宿可申上候、恐惶謹言

 九月二十二日
 惟然
意専老人

 元禄8年(1695年)、各務支考は芭蕉の足跡を巡遊。『笈日記』に「右一集はことし元禄の夏四月廿九日猿雖亭におゐ(い)て、記焉。」とある。

宝永元年(1704年)11月10日、65歳で没。

   猿雖に對して

もろもろの心柳にまかすへし


誤伝で、岩田涼菟の句らしい。

猿雖の句

あれあれて末は海行野分かな


朧さも夜毎にうとし椽(えん)


蒟蒻の湯気あたゝかにしぐれ哉


葉かくれに鶯の巣やなく片手


麦担興津の海士の暇かな


旅の屋の次の火燵や柴の熾(おき)


うくひすの夕の露はなにゝねた



片岨の秋のやつれやなすひ畑



此比やあとさきしらず花に蝶


悲しさを生付たる螢かな

白魚やあへかなる身を汐の海


入月の凉しや草のさくり足

底寒く時雨かねたる曇りかな


うきついて花の香のする男哉


山の芋ほられて寒き蛙かな


あれあれてすゑは海行野分かな


目に立て正月はやしむめの花


運ひ行や何もない野のはつ時雨


山ざくら世はむづかしき接穂哉


名のよきに最一ツとらん初茄子


乙鳥は土で家する木曾路哉


   孫娘におくれて、三月三日野外に遊ぶ

宿を出て雛忘れば桃の花


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