久下新田の一里塚から、ここまで1里ある。いま英泉描くところの「八丁堤の景」という浮世絵があって、当時の風景や風俗を偲ぶことができる。 |
享和2年(1802年)4月6日、太田南畝は熊谷宿を発って、八丁の一里塚を越える。 |
六日 天気よし。つとめてたつ。左右に田あり。石橋をわたりて麦の畑ある所をゆく。此あたりより東の方に桑の垣あるをみず。一里塚をこえ、戸田八丁村、ばら村の人家をすぎて右に社(あり)。籐花さかりなり。 |
昭和49年(1974年)10月、北村西望氏が渡辺崋山の描いた直実挙扇図を元に制作したブロンズ像。 |
札の辻は、高札の設置場所で高札場とも言われた。高札は、掟・条目・禁令などを板に書いた掲示板で、一般大衆に法令を徹底させるため、市場・要路など人目を引く所に掲示された。 熊谷宿の高札場は、宝永年間(1704〜1711)に作られた「見世割図面写」により、場所・大きさなどが推定できる。 場所は本町長野喜蔵の前の道路中央にあり「町往還中程に建置申候」と記され、木柵で囲まれた屋根のある高札場が描かれているので、今の大露地と中山道の交差する、この説明板付近と推定される。 大きさは、 一、高さ 一丈一尺 (約3.3m) 一、長さ ニ間四尺三寸 (約5m) 一、横 六尺四寸 (約2m) とある。 現在、高札は本陣であった竹田家に14枚残っている。
熊谷市教育委員会 |
本陣は、江戸時代初期の寛永12年(1635年)、諸大名に対する参勤交代制度が確立されてから各街道の宿場町に置かれたものである。諸大名や幕府役人・公家貴族などのための特別な旅館であり、門・玄関・上段の間を具えることができて、一般の旅館(旅籠屋)とは区別されていた。 従って、本陣の経営者も土地の豪家で苗字帯刀を許されるものが多かった。 熊谷宿の本陣は、明治17年(1884年)の火災と、昭和20年(1945年)の戦災で跡形もなく灰燼に帰してしまったが、嘉永2年(1849年)一条忠良の娘寿明姫宿泊の折、道中奉行に差出した本陣絵図の控えが竹井家に残っており、その絵図によって内部の模様が細々と分かる。中山道に面し、間口14間5尺(約27米)で、奥は星川にまで至り、上手の御入門・下手の通用門・建坪・部屋数・畳数など全国に現存する旧本陣と比べても規模・構造共に屈指のものである。
熊谷市教育委員会 |
享和2年(1802年)4月5日、太田南畝は熊谷宿の様子を書いている。 |
熊谷の駅にいれば道はゞ岡部よりもひろく、人家ことに賑ひて江戸のさまに似たり。木戸にいらんとする左のかたに蓮生寺みえしが、日高ければ宿につきて後にみんとて行過しぬ。人家に即席御料理など書るかんばんあり。薬うるものゝ軒に出せる招牌に、薬種とかける文字はじめて楷書に書きて、江戸の薬舗に異ならず。去年東海道よりはじめて京大坂の町々をもみしに、薬種の文字はかならず草書にかきてみえしが、けふはじめて江戸にいれる心地す。かばかりのものも故郷なつかしく覚ゆるは、旅人の心なるべし。 |
天保2年(1831年)10月12日、渡辺崋山は夜明け前に駕籠で鴻巣を発ち、熊谷に到る。 |
熊谷にいたる。此駅甚にぎはしう、瓦茨、鱗のやうにならびたてり。凡千戸にもおよぶべし。台屋といふ酒店に吉兵衛先かけていたり、酒飯す。 |
文久元年(1861年)11月12日、皇女和宮は熊谷宿に宿泊している。 |