高浜虚子の旅

「肥前の國まで」

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 大正11年(1922年)3月15日、高浜虚子は九州に向け出発、途中京都駅下車。16日、岡山下車。17日、下関着。18日、門司へ。19日、長崎着。

3月16日

銀閣寺


此庭が相阿彌の作であると言ふ事は豫て聞き及んで居たが、其の庭作りの頭の中からこんな銀沙灘と言ふやうなものが生れて來た事は驚異に値する。それは庭一面に高い白沙の段を築き上げて、それに粗い箒目を筋かひにつけたものでその隣に椀を伏せたやうな小高い山が同じく白沙で出來て居る。何の爲と言ふ事はない、これは庭の景趣を増す爲に築き上げたものであらう。無中有を生ずる筆法でこれあるが爲に庭の趣は活氣に富んで變化の妙を極めて居る。

3月18日

和布刈神社


 奈良鹿郎君の案内で三時四十五分門司へ向ふ。吉岡禪寺洞君も福岡から來る。棧橋には商船會社の小蒸汽が用意してある。元、武、禪寺洞の諸君を始め同行數名と乘る。今日は西風があつて白波が立つてをる。今日の席題春潮三句を作るに格好だ。舟を和布刈神社のほとり迄遣つて貰ふ。左が壇の浦右が和布刈神社、滿珠干珠の島を遠く眺める邊迄行く。潮流が急で渦を立てゝ流れて居る。こちらから見ると向うの方は海上が低くなつてゐて、潮が其方に落込む如く流れて居るやうに見える、小蒸気が波を蹴つて其上を乘り廻すのは愉快だ。

 門司の棧橋に着いて車に乘つて山手の基督教青年會館に會場に着く。杉田久女、峰青嵐氏等に會す。徳佐の白松麥村君も來る。會する者六十餘名。席題春潮三句。讀上げになつて諸君の選句を謹聽する。

 それから二三人の選んだ句のうちに、

   春潮に流るゝ藻あり矢の如し   久女

 といふ句があつた。これは「矢の如し」が面白いと思ふ。「春潮に流るゝ藻あり」とは極めて一直線に敍してあつて、其の次に「矢の如し」といふ形容詞が來てゐる爲に、其の春潮に流るゝ藻の状態が明瞭に想像される。これは私の見落した句である。

3月19日

門司港駅


 九時四十分頃山陽ホテルを出て、連絡の汽船に乘つて門司の驛につく。十時二分發の列車で長崎に向ふ。禅寺洞君も福岡迄同行する。連絡船までは杏冲、周一、麥村の三君の見送りを忝うし、門司の停車場には竹紫郎君が送つて呉れた。

 鳥栖より岐れる長崎線は始めてである。佐賀、早岐等の驛を過ぎて大村湾に沿うて走る。琵琶湖に沿うて走るのと同様に風光がいゝ。諫早も過ぎて段々長崎へ近づいて來る。

3月20日

大浦天主堂


 彦影君の病院は大浦の中腹に在つて宏大な建物である。此二月から開業したのださうで、まだ器具や病室が全部整つて居ないけれど、これが整つた曉は設備の完全した病院になることを思はしめる。其病室等を彦影君の案内で一覧する。應接室で荒井氏に面會する。荒井氏はジヤパン、ツーリスト、ビユーローの此地に於ける主任である。久保より江夫人の端書を示して、明日温泉に行つたらば九州ホテルに泊る事を勸める。九州ホテルは久保博士や同夫人の常宿である。其他愛野村から小濱、小濱から温泉等の自働車の世話を萬事引受けて呉れて、小濱や温泉へ電話をかけたりして呉れる。

 彦影君に導かれて直ぐ上の天主堂を見る。此天主堂は慶應に出來たものであつて、丁度此日儀式があつて信者の男や女達が來會して居つた。我等の行つた時は晝休みであつたが、なほ女の信者が二三人柱の下にうづくまつて居るのがあつた。額には豐臣氏時代にスピノザ以下三十餘人の日本の信者が磔になつて居る圖が油繪になつて懸つて居た。これは西洋人の描いた油繪であるといふ事であつた。此地方はキリシタンバテレンの信仰の力と、それを壓迫する政府との爭鬪の痕が到るところに見られる。

史跡料亭花月


長崎に入つて如何にも南國らしい暖かさを覺えたのは一夜ぎりであつて、今朝から非常な寒さを覺える。宿から著物を取りよせて重ね著る。こんな事は此地には珍しい事であるさうな。三時過に晝餐のを終つて一同再び丸山の花月に行く。此處で鶴の枕、山陽の書、去來の書、同じく文臺等を見て女將の懇篤な導きの下に裏の庭園までも見る。

高島秋帆旧宅


 散會後、茨花君の案内で高島秋帆の別業であつたといふ丸山の「たつみ」と言ふのに赴く。既に十時を過ぎて居たのであるが、折角の好意であるから赴くことにする。主人公茨花君を始めとして浅茅、庫輔、彦影、及び佐世保の紅々君が一座した。歌妓三四輩が席に侍した。秋帆の居間であつた梅の間といふのを見る。揮毫などして此家を辭したのが翌日午前一時半頃であつた。

3月21日

 此日の天候は風は凪いで居たが寒さはなほ強い。諫早で島原鐡道に乘り換へて愛野驛で下車。乘合自働車に乘つて小濱につく。小濱までの道は海岸づたひの峠を二三度越えるのである。千々石彎の風光がいゝ。

雲仙温泉「九州ホテル」


 小濱と言ふ所は温泉宿等もあつて相當賑かな所である。此處で乘合自働車を捨てゝ、貸切の自働車に乘つて温泉に行く。温泉までの道は悉く上り坂であつて、急角度をなして曲つて居る處も多い。それを運轉手は巧みに梶を取つて自働車を驅る。九州ホテルにつく。

 支配人の案内でゴルフ場になつて居る妙見ケ嶽の麓の芝原を上る。仁田まで上ると山の彼方も展望するといふ事であつたが、道の半ばで御免を蒙つた。併しその高きに上つて下の五萬坪許りのゴルフ場を見渡した光景は頗るいゝ。土地が乾いて空豁な所は普通の温泉場では見られぬ光景であつて、一寸經井澤などに似た趣がある。

清七地獄


 それから歸路矢嶽の麓の坂道を少し上つて九州ホテルの裏に出る。その下に見下す光景は異常な光景であつて、即ち噴火口に當る所であつて、噴烟は到る處に漲つて居る。而して我九州ホテルは丁度その中間に位して居る。元君が噴火口上に舞踏するといふのは丁度此事だと言ふ。温泉事務所も郵便局も其他數棟のホテルも皆此噴火口にあるのであつて、噴烟の中に包まれて居る。それから徐々とその噴烟の中を歩いて見る。何々地獄といふ土地から湯が噴出して居る所が何ケ所かある。道は其間にうねうねとついて居て可成危險な思ひをする。遂に九州ホテルに歸る。夕を食つて暫く雜談し温泉に這入る。温泉は硫黄泉だ。森閑とした山の中の宿は熟眠を貪るのに好適だ。三人各々別室の寢室の中に埋れて寢た。

3月24日

 久保博士の門に入つて車を下りると丁度拐童君が來る。其處で六人が應接間で久保夫人の歓待を受ける。間もなく竹下しづの女さんも見える。久保博士も歸つて來られる。其處で主客九人が食堂で午餐の御馳走に預る。一昨日皇后陛下の九州大學の行啓になつた時の話、昨日攝津に御乘艦になつた時の海上の荒れた話などがある。猫が二三匹入つて來る。より江夫人が其一匹を抱き上げて頬擦をして、食物を與へたりする。午餐がすんで田原夫人が見える。より江夫人の俳句を見る。

3月25日

 門司驛頭には奈良鹿郎、園田竹紫郎、林蓼雨、藤本東卯、日原方舟の諸君の出迎を受け、商船會社の小蒸汽船に乘る。棧橋で小倉の人々に別れを告げる。此間の嵐で商船會社の棧橋を殘した他の三四の棧橋は悉く粉微塵に碎けてしまひ、波のしぶきは會社の建物の中までかぶつたさうである。實に近來稀な暴風で、關門海峡の航路は一日餘り途絶したとのことである。今朝の寒さは段々治まつて、橋本氏の別莊に居る頃から暖かになつて、汽車に乗つた頃は初めて春の日の暖かな光景を味つたのであるが、今此蒸汽船に乘つてると未だ風が何處となく寒い。即ち舵を執つて居る船長の室に入つて行つて風をよける。船を彦島と陸地との接して居る大門の邊にやつて呉れる。それから舵を返して下關の棧橋に著ける。

   春の潮先帝祭も近づきぬ

3月26日

 今日の俳句會場は板宿の禪昌寺にあつて、正午から開會の筈になつて居る。途中で上西氏の邸宅に休んで、そこで今日の兼題を作る。會場には約百名の人が既に集まつて居る。

 次に私の句は、

   春風に早き躑躅の狂ひ花

   ひろびろと丘の道なり春の風

3月27日

須磨寺


 七時頃靜かに眼が覺める。躑躅君は既に起きてゐる。床の中で出來るともなく句ができる。

   鉢伏に雲のかゝれば春の雨

   浪荒るゝ日ものどかなり松の宿

 起きて見ると、よき日和で一面の霞だ。

   須磨の海霞んで見えぬ朝かな

 揮毫などをして午前十時半に金子邸を辭して、秋皎君の案内で須磨寺のほとりの僑居に木下淑夫氏を訪ねる。暫く怪談する。表に待つて居た秋皎、躑躅、淺茅樓三君も呼び入れる。奥さんの需に從つて揮毫をする。十二時になつて木下邸を辭する。木下氏も共々須磨寺の境内を散歩する。敦盛の首塚、義經の腰掛松、敦盛の首を洗つたといふ池、若木の櫻等を見て、須磨寺に參詣し、其處で木下氏に別れて、須磨停車場へ急ぐ。

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