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矢切の渡し〜『野菊の墓』〜

帝釈天から江戸川河川敷へ。


昭和7年(1932年)2月1日永井荷風は堤から矢切の渡しまで歩いた。

堤に登りて見れば水の流は廣からず、兩岸の河原茫漠として枯蘆のみ限りもなく茂りたるを、處々稻のやうに刈りて束ねたり、蘆の間に一條の小道あり、水邊に達するところに渡船の札を立てたり、思ふに矢切の渡しといふはこれなるべし、折から夕陽は高き堤に遮られて空に浮く雲のみ赤く、渡場のあたりは夕暮刻々迫り來りて舟を待つ人の影もなし、上流の鐵橋に電燈の光きらめきそむる頃來路を歩みて停車場に至る、


「矢切の渡し」の歌碑があった。


「つれて逃げてよ・・・」
「ついておいでよ・・・」
夕ぐれの雨が降る矢切の渡し
親のこころにそむいてまでも
恋に生きたい二人です

昭和25年(1950年)6月15日、細川たかしは真狩村に生まれる。

昭和58年(1983年)、「矢切の渡し」でレコード大賞。

平成6年(1994年)、真狩村に細川たかし記念像建立。

平成10年(1998年)4月、「矢切の渡し」の歌碑建立。

天気がいいので、「矢切の渡し」に乗ってみた。


料金は200円。

平成24年(2012年)10月から33年ぶりに値上げ。

江戸川を渡ると、千葉県松戸市。

「矢切の渡し」の碑


昭和59年(1984年)3月、細川たかし識

矢切の渡しは松戸市下矢切と東京都柴又を往復する渡しでその始まりは380余年前江戸時代初期にさかのぼります。

当時, 江戸への出入は非常に強い規則のもとにおかれており、関所やぶりは「はりつけ」になろうという世の中でしたが、江戸川の両岸に田畑をもつ農民は、その耕作のため関所の渡しを通らず農民特権として自由に渡船で行きかうことができました。これが矢切の渡し の始まりでいわゆる農民渡船といわれるものです。

明治以降は, 地元民の足として、また自然を愛する人々の散歩コースとして利用され現在では唯一の渡しとなっています。

この矢切の渡しの庶民性と矢切の里の素朴な風景は、千葉県の生んだ歌人でもあり小説家でもある伊藤左千夫の小説“野菊の墓”の淡い恋物語の背景となっておりその小説の中で美しく描かれております。

平成10年3月

『野菊の墓』の碑があった。


野菊の墓

 後の月の時分が來ると、どうも思はずには居られない。幼い譯とは思ふが何分にも忘れることが出来ない。最早十年餘も過去つた昔のことであるから、細かい事實は多くは覺えて居ないけれど、心持だけは今猶昨日の如く、其時の事を考へてると、全く當時の心持に立ち返つて、涙が留めどなく湧くのである。

悲しくもあり樂しくもありといふやうな状態で、忘れやうと思ふ事もないではないが、寧ろ繰返し繰返し、考へては、夢幻的の興味を貪って居る事が多い、そんな譯から一寸物に書いて置かうかといふ氣になつたのである。

 僕の家といふは、矢切の渡しを東に渡り、小高い岡の上で矢張り矢切村と云っている所。・・・・・・

・・・原文より 伊藤左千夫著

矢切の渡しから「野菊のこみち」が続く。

 江戸川河川敷に水原秋桜子「葛飾や桃の籬も水田」の句碑があったようだが、気付かなかった。

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