同所東の方洲崎にあり。別当を吉祥院と号す。本尊弁財天女の像は、弘法大師の作といふ。相伝ふ、元禄年間深津氏正隆台命を奉じ、八幡宮より東の方の海浜を築(つ)き立てゝ陸地とす。依つて同十三年庚辰護持院の大僧正隆光(字栄春、河辺氏。)この地に天女の宮居を建立すとなり。 この地は海岸にして佳景なり。殊更弥生の潮尽(しほひ)には都下の貴賎袖を連ねて、真砂の文蛤(はまぐり)を捜り、又は楼船を浮べて妓婦の絃歌に興を催すもありて、尤も春色を添ふるの一奇観たり。又冬月千鳥にも名を得たり。
『江戸名所図会』(洲崎弁財天社) |
当州崎神社は元弁天社と称し、厳島神社の御分霊祭神市杵島比売命を斉祀しており、創立は徳川五代将軍綱吉公の生母桂昌院の守り神として崇敬するところとなり、元禄13年(1700年)、江戸城中紅葉山より此の地に遷して宮居を建立してより代々徳川家の守護神となっていた。当時は海岸にして絶景、殊に弥生の潮時には城下の貴賤袖を連ねて真砂の蛤を捜り、楼船を浮べて妓婦の弦歌に興を催すとあり、文人墨客杖を引くという絶佳な所であったという。浮弁天の名の如く海中の島に祀られてありました。 |
天明8年(1788年)3月26日、蝶夢は州崎弁天を訪れている。 |
廿六日、老師・其由法師と三人、深川辺長慶寺、芭蕉翁・其角・嵐雪などの墓所え参。雪中庵を問ひ、語らひて、霊巌寺・八幡・す崎の弁天。南海の眺、一円に上総・下総を見わたす。 |
享和3年(1803年)7月29日、小林一茶は州崎弁天社に詣でている。 |
州崎詣 漸(ヤゝ)寒き後に遠しつくば山
『享和句帖』(享和3年7月) |
昭和7年(1932年)4月1日永井荷風は州崎弁天に詣でた。 |
辨天橋をわたり州崎辨天の祠に詣で、河岸通を西に進みて平野橋に出づ。 |
寛政3年(1791年)9月4日、深川洲崎一帯に襲来した高潮によって付近の家屋がことごとく流されて、多数の死者、行方不明が出た。 幕府はこの災害を重視して洲崎弁天社から西のあたり一帯の東西285間、南北30余間、総坪数5,467坪(約1万8千平方メートル)を買い上げて空地とし、これより海側に人が住むことを禁じた。そして空地の東北地点(州崎神社)と西南地点(平久橋の袂)に波除碑を建てた。当時の碑は地上6尺、角1尺であったという。 石碑は砂岩で脆く震災と戦災によって破損が著しい。現在地は現位置から若干移動しているものと思われる。 建設は寛政6年(1794年)頃で、碑文は屋代弘賢によるものと言われている。
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