下 町墨田区
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向島百花園〜御成座敷〜

JR総武線亀戸から日暮里駅前行きのバスに乗る。

明治通りの「百花園前」で下車。


隅田川七福神巡り発祥の地。

 文化元年(1804年)、百花園に集まる文人達の発案で隅田川七福神巡りが始まったそうだ。

 隅田川七福神は多聞寺(毘沙門天)、白鬚神社(寿老神)、百花園(福禄寿)、長命寺(弁財天)、弘福寺(布袋尊)、三囲神社(恵比寿、大国神)の6箇所。

 向島百花園は文化・文政時代、仙台出身の佐原鞠塢(きくう)によって開設された。

亀田鵬斎「墨沱梅荘記」に当時の様子が詳しく書かれている。

 鞠塢から8代目の佐原滋元(しげもと)氏が百花園内で茶店「茶亭さはら」を営業している。

「百花園」と言うぐらいだから、2月でも花は咲いていた。

素心蝋梅(そしんろうばい)


節分草


節分草はキンポウゲ科の花

向島百花園には芭蕉の句碑山上憶良の歌碑を始め、数多くの碑がある。

鈴木道彦の句碑があった。


今日の月さても惜しまぬ光かな

美知彦(みちひこ)

世の中の梅の咲きけり隅田川

文政十三庚寅(こういん)九月 七十四翁一桑庵野月建之

鈴木道彦は仙台の人、加舎白雄の門下。

文政2年(1819年)9月6日、道彦没。享年62歳。

「文政十三庚寅」は1830年。道彦の十三回忌にあたる。

句碑建立の記念集『石碑供養』を刊行。

この年12月10日、天保と改元。

雪中庵梅年の句碑


たそがれやまたひとり行く雪の人

明治18年(1885年)8月、建立。

 梅年は江戸四谷の人。原田氏。通称幸次郎。雪中庵對山の門人。八世雪中庵を嗣ぐ。

明治38年(1905年)1月12日、85歳で没。

其角堂永機の句碑


朧夜やたれをあるじの墨沱川

 永機は江戸の生まれ。穂積氏。通称は善之。別号老鼠堂。父六世其角堂鼠肝に俳諧を学び、其角堂七世を嗣承。

明治37年(1904年)、82歳で没。

明治32年(1909年)、正岡子規は百花園を句に詠んでいる。

   百花園

入口に七草植ゑぬ花屋敷

『俳句稿』(明治32年)

 大正14年(1925年)、高野素十は向島百花園の伝統行事「虫はなち会」に訪れている。

   百華園蠹放ち 二句

かご燈籠さげて案内や蠹放ち

灯のかげの萩を攀ぢをりきりぎりす

『初鴉』

 昭和7年(1932年)9月15日、向島百花園において東京放送局主宰で中秋の観月会が催された。放送局文芸部長の久保田万太郎が観月会の「肝煎」で、歌の選者は与謝野晶子であった。

この日は中継放送句会もあったようだ。

九月十五日。放送局主催中継放送句会。百花園。

 ほつほつと屋根ぬれそめし月の雨

 歌により句にこぞりたる雨月かな

 月無しと極めて芙蓉の花に立つ

『句日記』

ちなみに満州国承認の日で、放送時間が短縮されたそうだ。

 昭和20年(1945年)3月10日、東京大空襲により焼夷弾の直撃を受け、全園消失。

昭和32年(1957年)、石田波郷は向島百花園を訪れた。

 久しぶりに百花園を訪ねた。昭和18年仲秋雨月、どしゃぶりでだれも来ない百花園芭蕉庵で友人2、3人と酒を飲んだ以来である。あの夜雨が上がった萩薄(はぎすすき)のくさむらに、園主の佐原さんが雪洞(ぼんぼり)をいくつも並べてくれた。なつかしい志だった。その芭蕉庵も、佐原さんも戦災で失われてしまった。私は雨月の宴後4、5日して大陸に召集され病む身となった。すでに穂の出はじめた薄やはしり咲の紅萩の見られる細道を歩いていると、歳月の思いしきりである。

「園主の佐原さん」は鞠塢(きくう)から5代目だそうだ。

 今園内の草木百二、三十種、ほとんど昔日にかわらなくなっている。芭蕉庵もこの10月末にはほぼ原型通りに再建されるそうである。名物の萩のトンネルは、青萩が茂って天井部にややすき間がある程度、夕風が起こって萩薄に吹きわたると、さすがに秋の気配がする。8月20日ごろには虫はなち会がある。江戸庶民の愛してきた風雅の伝統が、ここにもはっきり残っている。出口の掲示板に、今、園内に咲いている花の名の木札がかかっていた。コモギギク、ムラサキツユクサ、マツヨイグサ、ハンゲショウ、オイランソウなど15枚。

『江東歳時記』(向島百花園)

昭和33年(1958年)2月、御成座敷が集会施設として再建、4月開放。

御成座敷


昭和61年(1986年)4月に改築、再開されたものである。

 御成座敷には、かつて俳聖芭蕉の像が奉られていた「芭蕉の間」があるそうだ。

現在は芭蕉の像も無く、「芭蕉の間」という名前だけが残っている。

石田波郷が『江東歳時記』で書いている「芭蕉庵」である。

白鬚神社へ。

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