日比翁助 |
隅田川七福神は多聞寺(毘沙門天)、白鬚神社(寿老神)、百花園(福禄寿)、長命寺(弁財天)、弘福寺(布袋尊)、三囲神社(恵比寿、大国神)の6箇所。 |
小梅村田の中にあり。(故に田中稲荷とも云ふ。)別当は天台宗延命寺と号す。神像は弘法大師の作にして、同じ大師の勧請なりといへり。文和年間三井寺の源慶僧都再興す。慶長の頃迄は今の地より南の方にありしを、後この地に移せり。当社の内陣に英一蝶の描ける、牛若丸と弁慶が半身の図を掲けたり。 『五元集』 牛島みめぐりの神前にて、雨乞するものにかはりて、 |
夕立や田をみめぐりの神ならば | 宝晋齋其角 |
あくる日雨ふる。 (社僧云く、元禄六年の夏大いに干魃(ひでり)す。しかるに同じ六月の廿八日、村人あつまりて神前に請雨(あまごひ)の祈願す。その日其角も当社に参詣せしに、伴ひし人の中に白雲といへるありて、其角に請雨の発句すべきよしすゝめければ、農民にかはりて一句を連ねて、当社の神前にたてまつりしに、感応やありけん。その日膏雨たちまちに注ぎけるとなり。その草は今も当社に伝へてあり。
『江戸名所図会』(三囲稲荷社) |
元禄6年(1693年)は非常なかんばつで、困り切った小梅村の農民が三囲社頭に集まり、鉦や太鼓を打ち鳴らしていた。ちょうど俳人其角が門人白雲をつれて吉原へ遊びに行く途中、三囲に詣でたところ、雨乞をしているありさまをみて、能因法師などの雨乞の故事にならい「遊(ゆ)ふた地や田を見めぐりの神ならば」と詠んだのがこの句である。 其角は寛文元年(1661年)江戸に生まれ、姓を榎本、のちに室井と称し、江戸時代中期の俳人で、芭蕉門下第一の高弟として重んぜられ、宝晋齋と号し、とくに洒落風の句を得意とした。 自選句集の五元集に「牛嶋三囲の神前に雨乞をするものにかわりて、夕立や田を見めぐりの神ならば、とうたえば翌日雨降る」と記されているように早速効果があったと伝えられている。この碑は明治6年再建されたものである。 昭和45年11月3日 建設
墨田区 |
牛島三遶の神前に雨乞をするものにかわりて 夕立や田を見めぐりの神ならば 翌日雨降る |
「白露や無分別なる置きどころ」と刻まれています。文化9年(1812年)、西山宗因の流れをくむ素外らが発起人となり、始祖宗因の作品中でもっともすぐれたこの句を選んで建立したものです。 宗因は慶長10年(1605年)肥後(現熊本県)に生まれた江戸初期の著名な連歌師、俳人です。連歌ではおもに宗因、俳諧では一幽、西翁、梅翁などと称しました。のちに大阪天満宮の連歌所宗匠の職につき、連歌界の重鎮として知られました。俳諧を始めたのは晩年に近く、あくまで余技としてでした。詠みぶりは軽妙酒脱、急速に俳壇の人気を集め、談林俳諧勃興の起因となった人で、芭蕉は「此道中興開山なり」と記しています。
墨田区教育委員会 |
三囲神社 夕立の句碑うづくまり凍解くる 授かりし一福として冬日和
『愛日抄』 |
三月正當三十日 山吹も柳の糸のはらみ哉 |
三遶奉納 早稲酒や稲荷よび出す姥がもと |
十五日 酉ノ刻陰る 戌刻雨 十五夜や田を三巡の神の雨
『文化句帖』(文化2年8月) |
句碑の裏に「大正拾参年九月一日の一周忌に於て富田木歩君慰霊の為建之 友人一同 亜浪書」と書いてあるそうだ。 木歩(もっぽ)という号は、病気のために足が不自由で木の義足を使っていたことに由来する。関東大震災に遭遇し、友人に担がれて避難するが、火の海と津波に四方を囲まれて命を失ったそうだ。享年27歳。江戸川区の最勝寺に墓がある。 |