貞亨4年(1687年)、『笈の小文』の旅の途中、名古屋の風月堂で詠まれた句である。芭蕉44歳の時のこと。 |
芭蕉の句碑は全国で1,500余を数えるといわれるが、その中で「いざさらば雪見にころぶ所まで」というこの雪見の句碑は、最もすぐれたものの1つである。松尾芭蕉の門人祇空はこの地に庵をつくり、その後祇空の門人自在庵祇徳は庵室に芭蕉像を安置し、芭蕉堂とした。そして、三世自在庵祇徳が芭蕉の風と徳を慕って、安政5年(1858年) 庵を再興し、この句碑を建立した。 昭和45年11月3日 建設
墨田区
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正徳元年(1711年)、祇空は隅田川のほとり庵崎に有無庵を結ぶ。 |
本所牛御前近所 |
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雪見塚 | 天台宗 寳壽山長命寺 |
いささらは雪見にころふ所まて此句を刻て名とす寳暦三酉十月古祇徳門人祇庸造立松村桃鏡補之 |
牛島宝寿山長命寺 門前ニ在 |
脇ニ 此おくに芭蕉堂あり 碑裏 宝暦二二甲戌孟冬 宝寿山長命蘭若門前建焉 自在庵祇徳門人瓢笠坊祇庸 |
宝暦年間(1751年〜1761年)、初世祇徳が祇空の庵跡に芭蕉堂を建てる。祇徳は江戸浅草の札差。 |
側に「はせをゆきみの舊地」と刻せる石を立つ。其横に「此おくに芭蕉堂あり」と刻し、裏に「寳暦四甲戌孟冬、自在庵祇徳門人瓢笠坊祇庸寶壽山長命蘭若門前建焉。而して自在庵中に移す」と刻したり。知らざる者は、或は芭蕉堂今尚在りと思ひて訪ふ者もあらん。然れとも堂は既に燒失して、唯此石表の存せるものゝみぞかし。
『新撰東京名所図会』
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同寺境内芭蕉堂 |
此堂年久しく破壊して林中浅黄桜の下に残リありしを文政三年俳道人能阿なる者再建して境内裏門の内に存せり |
文政3年(1820年)、能阿が芭蕉堂再建するが、明治29年(1896年)の火災で焼失。 |
裏門の側にありしが、明治二十九年燒失したり。遊覧志に云、寳暦年中祇徳建立にて自在庵といふ。能阿再興して世にいふ長命寺のはせを堂これなり。寺伝に據るに芭蕉の像は桐の自作にて門弟乙由か奉持したるを後に能阿か再興したるものなり
『新撰東京名所図会』
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