2015年熊 本

水前寺江津湖公園〜夏目漱石の句碑〜
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水前寺江津湖公園に夏目漱石の句碑があるというので、行ってみた。

 明治40年(1907年)8月15日、与謝野寛、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里の5人は江津湖で船遊びをする。

水前寺の後に画津湖がある。水前寺の水が落ちて大小二つの湖水と成つたものだ。松村氏は予を湖畔の旗亭勢舞水楼(せんすいろう)に案内した。

「五足の靴」(画津湖)

昭和3年(1928年)10月9日、高浜虚子は江津湖を訪れる。

十月九日。朝、汽車にて熊本に向ふ。十一時熊本著。草餅、坡牛、
是山、田々子等に迎へらる、故寸七翁の父君金十郎翁並に義妹き
ま子も出迎の中にあり。熊本城及び水前寺を見物して画津花壇の
俳句会に臨む。会者、夕陽斜、木母寺等三十名。

 縦横に水の流れや芭蕉林


加勢川沿いの芭蕉園に虚子の句碑があった。


縦横に水の流れや芭蕉林

昭和29年(1954年)6月、建立。

 虚子翁は大正四年、昭和三年、同二十七年、同三十年と四回熊本市に遊んだ。この句は二回目の昭和三年六月九日の作である。熊本市の東郊出水町に江津湖という小さな湖がある。湖畔の建物は当時料亭江津花壇と呼ばれたところで、今は井関農機会社熊本製作所江津荘という寮舎になって居る。井関の本社は松山市にあり、社長井関邦三郎氏は虚子翁と同郷のよしみから、昭和二十九年六月ここにこの句碑を建てた。碑の周囲林泉の水中には南国らしい自生の芭蕉の大株が、のびのびと多くの新葉をひろげて居る。

 碑は高さ約九尺、幅三尺、厚さ二尺、熊本市の西郊金峯山から運んで来た自然石である。(熊本・阿部小壺氏報)


 昭和30年(1955年)5月14日、高浜虚子は飛行機で板付空港(現福岡空港)に入り、二日市市の玉泉閣を訪れた。翌15日柳川、翌16日は熊本の江津湖を訪れた。虚子は中村汀女の家を訪ねている。

蒲團あり來て泊れとの汀女母

      五月十六日 熊本、江津荘。芭蕉林。


汀女さんのお母様は父より半年上のお方である。九州の旅の折、江津湖畔のお家を訪ねた。その頃の父は元気であつた。お母様も大変元気でいらつしやつた。蒲団が十分にある故お泊りなさい、としきりにすゝめて下さつた。

『虚子一日一句』(星野立子編)

休憩園地に中村汀女の句碑の句碑があった。


とゞまればあたりにふゆる蜻蛉かな

昭和60年(1985年)秋、風花熊本支部建立。

 明治33年(1900年)4月11日、中村汀女は熊本県飽託郡画図村(現熊本市中央区江津1丁目)に生まれる。本名は破魔子。

 昭和9年(1934年)、ホトトギス同人となる。

 昭和22年(1947年)、俳誌『風花』を創刊・主宰。

 昭和54年(1979年)、熊本市の名誉市民となる。

 昭和63年(1988)9月20日、没。

夏目漱石の句碑もあった。


ふるひ寄せて白魚崩れんばかりなり

 文豪夏目漱石は、明治29年4月第五高等学校(現熊本大学)講師として来熊、33年まで滞在した。東大出の厳格な英語教師として熱心に学生を指導する中、余暇を利用して俳句を楽しみ、1000句に近い作品を残している。漱石は親友の正岡子規を俳句の師と仰ぎ、子規の写生説を基本にしながら、その博識、豊かな連想を生かして自在に俳句を作り、近代の知識人の内奥を伝える独自の俳句をの世界を詠出している。

 この句は、明治30年の作で、かつては江津湖でもよくみられた「四つ手」網漁の一コマで、網の中で白魚がふるい寄せられ、全身ではねる時の小さな活力に注目している。漱石には小さな可憐なものへの愛着が強かったようだ。

‘96くまもと漱石博推進100人委員会設置
1997年3月

 熊本近代文学館は改修工事のため、平成26年(2014年)7月から27年度後半まで休館。

残念だった。

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