2016年熊 本

春光寺〜碑巡り〜
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八代市古麓(ふるふもと)町に春光寺という寺がある。

春光寺と西南戦争(官薩両軍の激戦地)

 春光寺は肥後細川家の筆頭家老松井家の菩提所で、本堂裏手の書院造り(御成りの間・御次の間)は江戸時代のままである。

 明治10年の西南戦争では邊見十郎太の率いる薩摩軍がここに陣を置いた。4月は特に激しい戦いで、寺の古廟にある神道碑、御次の間の板襖、達磨像に弾痕がある。

 寺域は初め薩軍の陣地となり、大砲2門を据えて発砲したが、官軍の猛攻で両軍とも多くの戦死者を出した。

 近くの萩原堤では熊本協同隊参謀宮崎八郎が戦死し、桜馬場では薩軍の遺体が埋葬されたという。

 春光寺では両軍戦没者のため慰霊碑を建立している。

山 門


山門の前に西山宗因の句碑があった。


ながむとて花にもいたし首の骨

出典は『牛飼』(富永燕石編)。

昭和60年(1985年)6月、建立。

慶長10年(1605年)、宗因は肥後に生まれる。

山門を入ると、鐘楼の下に3基の句碑があった。

田辺夕陽斜の句碑


老杉を簷に方丈百千鳥

阿部小壷の句碑


花の句碑時雨の句碑と遍路せん

 明治42年(1909年)、阿部小壷は熊本市に生まれ、家業の味噌・醤油醸造業に携わる。俳誌「阿蘇」を主宰。昭和56年(1981年)、没。

春光寺花屑の句碑


今日もまた一衣一鉢秋の空

花屑は春光寺先代住職の俳号。

春光寺


 春光寺は八代城主松井寺の菩提所です。その創建は、天正11年(1583年)初代松井康之が亡父正之追善のため、丹後久美浜(京都府京丹後市久美浜町)に常喜山宗雲寺を建立したのに始まります。その後、豊後杵築・豊後小倉・肥後熊本と移り、延宝5年(1677年)直之の代に現在地に移され、江東山春光寺と改称し、今日に至っています。寺名の由来は、松井康之の法号「春光院殿英雲宗傑」によります。

 境内の本堂・鐘楼は明治時代の再建ですが、大書院及び庫裏は熊本の臨川山松雲院(熊本市中央区東子飼町)から移築したままの姿を留めています。大書院には城主の「お成りの間」と「お次の間」があり、大床・違棚・畳廊下がみられるとともに板戸の極彩色の花鳥図・大襖の農耕の絵・欄間の波と蘆を表した豪華な彫刻など、建築意匠としても優れた特徴がみられます。

 また、裏山には松井家歴代の古廟・新廟と主君に殉じた家臣10名の墓があります。

八代市教育委員会

左手に「親子三代句碑」があった。


 俳誌「阿蘇」は、平成19年(2007年)4月号で創刊900号を迎えた。その記念行事の一環として、ここに稲畑汀子先生の句碑を建立し、親子三代句碑として整えたものである。

      平成19年(2007年)5月19日

俳誌「阿蘇」主宰 岩岡中正

天地の間(あわい)にほろと時雨かな 虚子

 本名高濱清(1874〜1959)。正岡子規に兄事して俳句を学び「俳句は花鳥諷詠詩」を提唱し、『ホトトギス』を主宰して伝統俳句の興隆に尽した。1954年、文化勲章受賞

行秋の八代日和蝶多し        年男

 本名高濱年男(1900〜1979)。父高濱虚子、母いとの長男。大正2年(1913年)頃から作句。1951年、虚子から『ホトトギス』の雑詠選を引き継ぎ、虚子亡き後主宰を継承。父の提唱した「花鳥諷詠」を守り深めた。

本の紅葉に染まりゆくわれか   汀子

 本名稲畑汀子(1931〜)。父高濱年男、母喜美の次女。若い頃から虚子、年男の旅に同行して俳人としての修行に努める。1979年、父年男の死去により『ホトトギス』主宰を継承。1987年、日本伝統俳句協会を設立。2000年、芦屋市に財団法人「虚子記念文学館」を創設。

高濱虚子の句碑だけを撮ってみた。


出典は『六百句』。

「十一月二十二日 長泰寺に於ける花蓑追悼会に句を寄す。」とある。

昭和17年(1942年)11月6日、鈴木花蓑(はなみの)は62才で歿。

昭和十七年十一月二十二日。長泰寺に於ける花蓑追悼会に句を寄す。

 泉石に魂入りし時雨かな

 天地の間にほろと時雨かな


昭和31年(1956年)11月4日、春光寺花屑建立。

春光寺最初の句碑らしい。

昭和32年(1957年)、高浜年尾は春光寺を訪れている。

行秋の八代日和蝶多し


昭和48年(1973年)11月26日、除幕。

   十一月二十六日 八代春光寺 句碑除幕

わが為によき今日の日の冬紅葉

『句日記』

田中鳴風の句碑


石段の数だけ濁世遠ざかり

宮本武蔵


戦氣 寒流帯月澄如鏡(寒流月帯びて澄めること鏡の如し)

 「寒流帯月澄如鏡」は白楽天の句で、『和漢朗詠集』により広く知られているという。

 慶長17年(1612年)4月13日、巌流島の決闘で豊前小倉城主細川忠興の家老松井興長は立会人をつとめたそうだ。

境内には他にも多くの句碑があったが、よく分からなかった。

古麓城跡へ。

途中に上田幸法の詩碑があった。


行く鳥がいる
帰る鳥がいる
みんな私の肩を
叩いていく

坂田道太の撰文がある。道太の父道男は八代市長。

 郷土の詩人として親しまれている上田幸法は大正5年現八代市井上町に生れる。若い頃から詩作に励み「冬の神さま」など多くの詩集を著わす一方詩誌「知性と感性」を主宰する。日本現代詩人会会員、熊本県詩人会代表、人間性豊かな作風を貫き、地域文化発展の一翼を担う。

昭和61年秋 坂田道太

大正5年(1916年)、坂田道太は八代市に生まれる。

平成16年(2004年)1月13日、87歳で没。

芭蕉の句碑があった。


馬ほくほく我を絵に見る枯野かな

出典は『泊船集』。「夏野の画讃」には「夏野かな」とある。

昭和61年(1986年)11月、再建。発願主 春光寺花屑。

 『諸国翁墳記』に「枯野塚 肥後八代アリ 徽見建 馬ほくほく我を繪に見る枯野哉」とある。

古麓城跡

 古麓町上り山一帯には、南北朝時代(1336年〜1392年)から戦国時代(1367年/1393年〜1590年)末まで250年余りの間、山城がありました。この山城は現在、古麓城跡と呼ばれていますが、当時は八代城と呼ばれていました。

 建武元年(1334年)に名和義高が八代荘の地頭に任じられ、翌年には代官として一族の内河義真(よしざね)が下向し、南北朝の争乱に備えて築城したと伝えられます。

 南北朝合一後、古麓城を中心に八代地域を支配していた名和氏は、文明16年(1484年)に球磨地方を拠点とする相良氏に追放された後、明応8年(1499年)に古麓城主に返り咲きますが、文亀4年(1504年)に相良長毎(ながつね)が古麓城に入城して八代を領地とし、天文3年(1534年)には相良長唯によって城の大規模な整備と城下町の整備が行われました。

 天正9年(1581年)響野原(現宇城市)で相良義陽(よしひ)が戦死して島津氏の領地となり、翌10年に島津氏家臣の平田光宗が古麓城に常駐することとなりました。

 しかし、天正15年(1587年)の豊臣秀吉の九州攻めによって、島津氏は八代から退却し、薩摩に戻りました。九州攻めの最中の4月19日には豊臣秀吉が古麓城に入城し、4日間滞在してキリスト教の宣教師ルイス=フロイスの面会を受けています。フロイスが語った八代の美しさが『日本史』に記されています。

 九州攻めの後、肥後の領主となった佐々成政は国衆一揆の責任を負わされて切腹させられ、八代は小西行長の領地となりましたが、行長は城を球磨川河口の麦島に移したため、古麓城は廃城となりました。

八代市教育委員会

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