虚子の句碑

『虚子翁句碑』(本山桂川著)

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 明治21年(1888年)、桂川は長崎市江戸町に生まれる。本名は豊治。

 昭和31年(1956年)3月3日、『虚子翁句碑』(新樹社)刊。

 昭和49年(1974年)10月10日、86歳で永眠。

 明治以降の著名な俳人で、建碑の数の多いのに、正岡子規居士のそれがある。句碑二十七基、歌碑三基、墓碑、墓誌碑、埋髪塔、その他五基、三十五基――これが子規碑の現在数である。

 その他、基数の多いのに、大谷句佛十五基、臼田亜郎十四基、村上鬼城十三基がある。

 虚子翁の句碑は、しかし、はるかにそれらの群を抜いて居る。俳誌ホトトギスは昭和三十年四月号を以て七百号に達したが同年十二月、北海道から九州まで、全国各地にわたり、虚子翁の句碑は七十基を超えた。今後も陸続各地に建設されるであろう。



 西ノ下老松



この松の下にたゝずめば露のわれ

 この句碑は愛媛県温泉郡河野村柳原西ノ下の大師堂脇老松の根方に建っている。昭和三年十月の建設で、高さ約十尺、幅厚さともに一尺三寸位の柱状自然石、素朴な茶褐色の山石の碑である。碑陰には「高浜虚子君嘗て其幼時を過せし我西の下の地を見んとて大正六年十月十五日帰省の序を此地に来り遊ぶ 今其時になれる句を乞ひ石に刻してこの松の下に建つ 干時昭和三年十月中浣」と記されて居る。

 虚子翁は明治七年二月二日、伊予松山長町の新丁(今の同市港町四丁目)に生れたが、翌年、親父池内庄四郎氏がこの西ノ下に郷居帰農することになったので、共にここに移り、数え年八歳の時までこの地に育った、忘れ難い西ノ下の風光や、幼い日の思い出については、「虚子自伝」の冒頭に語られて居るばかりでなく、しばしばホトトギス誌上などにも筆を執って居られる。

 金剛峯寺



炎天の空美しや高野山

 昭和二年の作。同二十六年六月、この句碑が高野山金剛峯寺境内に建てられた。高さ六尺の角碑で、彫も深く、どっしりとしたものである。(高野山森白象氏報)

 虚子翁は昭和二十七年五月、叡山における御両親の法要を済ませた後、同月二十五日、金剛峯寺の俳句大会に臨まれた。この日、会衆四百人という盛会で、

   千株の金剛峯寺の牡丹かな   虚子

などいう華やかさであった。思えば曾て芭蕉は、二十三歳で主公藤堂蝉吟の早世に遭い、悲嘆のうちに遺髪を奉じ、これを高野山報恩院に納めて帰ると、主家を退き、伊賀の故郷を後にしたのであった。それから二十三年の後、元禄元年芳野紀行の途次、杜国とともに高野山に詣で、「父母のしきりに恋し雉子の声」の吟を遺した。池大雅の筆に成るその句碑が今も奥の院に苔蒸して居る。安永四年(一七七六年)の建立で、碑陰には雪中庵三世蓼太の雉子塚の銘が刻んである。あれこれ俳諧に連なる今昔の情景が偲ばれる。

 須磨の浦曲



   虚子の東帰に

ことづてよ須磨の浦わに晝寝すと
   子規

   子規五十年忌

月を思ひ人を思ひて須磨にあり
   虚子

 この師弟の二句を碑面に並刻した句碑が神戸市須磨浦公園の観光ハウス西手、ドライブウェーの山際に建設除幕されたのは、昭和二十八年四月二十九日のことであった。高さ約三尺、幅五尺、本御影の自然石を乱石積の礎石の上に据えたものである。

 明治二十七年、日清戦争が勃発すると間もなく、子規居士は「日本新聞」の従軍記者を志願し、病躯を押して遼東半島に渡ったが、金州から帰国の輸送船中で喀血し、一時危殆にに瀕した。そのためその年(明治二十八年)五月二十三日、神戸病院から須磨保養院に移って療養する身となった。これを見舞った虚子翁は同地にとどまって看護をつづけた。帰京するに当り、虚子に与えたのが碑面右手に刻んだ子規居士の感懐であった。筆蹟は子規全集のものから採って展大彫刻した。

 昭和二十六年九月十九日は子規居士の五十回忌に当った。碑面左手に刻まれたのが、その時松山に下る途中、この地に立寄って往事を回顧した虚子翁の追懐であった。

 句碑のある場所は、須磨浦をはるかに見下す風光明媚の地で、子規居士が生前最も好きであったとこる。建碑は同地在住の五十嵐播水氏を中心にして完工された。除幕式の当日、虚子翁は次の一句を鎌倉から寄せられた。

   君と共にふたたび須磨の涼にあらん   虚子

 松山正宗寺



笹啼が初音になりし頃のこと

 松山市末広町正宗寺境内には子規堂前側に「正岡子規之碑」と題した頌徳碑が再建され、またその墓地には子規居士の埋髪塔が、内藤鳴雪の髭塔と並んで営まれて居る。そして墓地の入口手前には、昭和二十四年十月、ホトトギス六百号を記念するために、この句碑が建てられた。高さ約八尺、幅五尺の自然石で、句の前書には「松山ホトトギス六百号記念会極堂居にて」とある。柳原極堂翁は子規居士と同郷同年の盟友で、日本派の俳人。明治三十年一月俳誌ホトトギスを松山に創刊し、翌年八月の第二十号終刊までいわゆる「松山版 ホトトギス」を主宰し、今なお同地自宅で健在である。

 瀬戸の夏海



戻り来て瀬戸の夏海絵の如し

 今治駅前、ロータリーの一角にはすばらしい一基の虚子翁碑が横って居る。高さ五尺、幅十尺、自然石の野面を磨いて縦三尺五寸、横四尺五寸の角切額縁輪廓をつけ、次の一章を刻む。昭和二十六年九月二十一日序幕、同地虚子翁句碑建設協賛会の建設になる。

(中 略)

周知の如く虚子翁は昭和十一年二月十六日、郵船箱根丸で、当時パリー遊学中の次男池内友次郎を訪ね旁々単身渡佛され、ドイツ、イギリスをも巡遊して同年六月十五日帰国された。帰来「渡佛日記」の著があった。文中楠窓君とあるのは、その時の箱根丸事務長上ノ畑楠窓のことである。

 波止浜春潮

春潮や和冦の子孫汝と我


 この句碑は昭和二十五年五月二十八日、愛媛県国立公園内の波止浜公園に建てられた。碑は高さ五尺、横八尺、御影の自然石。今井つる女氏の熱心な提唱により、波止浜句碑建設会の手で建設された。波止浜は曾て瀬戸内海における「倭寇」の根拠地せあったという説がある。寛文三年刊、香西成資著の「南海通記」に「明世宗嘉靖年中ニ、倭ノ賊船大明国ニ入リテ、其ノ辺境ヲ侵ス事アリ、是レ倭ノ後奈良帝ノ天文弘治ノ年ニ当ル(中略)四国伊豫ノ能嶋、来島、院島ノ氏族将帥ト成リテ、諸所ヲ誘キ来ラスモノナリ云々」とあった。(真下喜太カ氏考証)

飯岡秋都庵



惟る御生涯や萩の露

 いまは愛媛県西条市に編入された飯岡の秋都庵には虚子翁外祖父母の墓がある。昭和二十八年二月の「句日記」に、

二月二日。伊予西条在飯岡村秋都庵にある我が外祖父母の墓畔に句碑を建てると、山岡酔花の切望せるに応へて句を送る。外祖父山川市蔵は若くして浪人し、松山藩外に在りて寺子屋などをし生涯を此地に終りたると聞く。

   惟る御生涯や萩の露

と見えて居る。松山藩士山川市蔵は仔細あって、主家を去り、仮の名を真野幸右衛門と称し、飯岡の里に寺子屋を開き、妻女は鼓の師匠をしてこの地に不遇な一生を終ったひとである。この市蔵という人も能の鼓に堪能であったという。

 丸亀城址



稲むしろあり飯の山あり昔今

 昭和二十四年十月二十一日、丸亀市に来遊された虚子翁は、同市市制施行五十周年に際し、句碑を建てようという企画に賛し、延寿閣において一句を詠まれた。そして自ら丸亀城址に歩を運び、句碑建設の場所をも選定された。

 昭和二十五年三月中旬、句碑の建立が竣工した。碑は丸亀城址の見返り坂を登りつめた右側に高く聳えた扇型城壁の根元に東面して建って居る。虚子翁の希望により台石は使用されなかった。高さ十尺、底部の幅六尺、厚さ一尺五寸の自然石に、横三尺九寸五分、縦三尺二寸五分の額面を削り磨き、その右寄りに句を刻み、左寄り半分は空白のままに残してある。まことに均整のとれた構造である。(丸亀・吉田孤羊氏報)

 讃岐琴平



たまたまの紅葉祭に逢ひけるも

 昭和二十四年十月二十日、この句碑が香川県琴平町桜屋旅館玄関前の青木の蔭に建てられた。高さ三尺七寸、幅二尺七寸、厚さ八寸。この宿の主人合田丁字路氏はホトトギスの同人で旅館を「俳諧の宿」と称して居る。昭和二十一年十一月十日、高浜虚子はホトトギス六百号記念四国大会に出席のため西下された虚子翁の宿泊を記念して建設したものである。

 金刀比羅神宮では毎年十一月十日紅葉祭という祭典がある。神官等奉仕の人々紅葉の枝をかざして祭列を彩ること恰も加茂の葵祭に似て居る。

 伊野の紙漉



紙を漉く女もかざす珊瑚かな

 昭和二十四年十月二十日、虚子翁は真砂子、立子氏等同道で土佐の佐川町に旧友を訪れる途次、土地の人々の懇請に応え、土佐紙の本場伊野町に立寄り、紙漉の状況を視てこの作があった。同地出身の土居由季氏請うて揮毫を需め、昭和二十八年十月、同町椙本神社境内に建碑した。高さ七尺、幅一尺三寸、厚さ六寸の黒御影石。前記の事由を碑陰に誌し「永久ニ之ヲ記念セント句碑ヲ建テ紙ノ故郷伊野町ニ贈ル」と刻んである。

 貫之館址



土佐日記懐にあり散る桜

 この句碑は高知県長岡郡国府村国分の貫之館址にある。昭和十九年四月三日、竜巻会の建立にかかり、高さ六尺六寸、幅一尺、厚さ七寸の御影石角柱碑である。

 貫之は、附け加えるまでもなく古今和歌集の選者であり、平安時代前期の歌人として柿本人麿と共に歌聖と仰がれて居る。ことに「土佐日記」は、当時異色ある存在であった。延長八年正月、土佐守に任ぜられ、任地に下り、在任四年の歳月が満ちて承平五年都に帰った。「土佐日記」は即ちその道中の日記である。館址という場所には、いま建築物などもなく、畑地の一隅に桜の老樹が枝を張って居るに過ぎない。

 弘岡下ノ村



桐一葉日あたりながら落ちにけり

 この句碑は昭和二十八年十二月十五日、高知県吾川郡弘岡下ノ村城念に営まれた英霊塔の傍らに建てられた。高さ六尺、幅一尺の角柱碑。塔は高さ八尺、幅一尺三寸、厚さ七寸の御影石。句碑の裏面に次の碑文がある。

忠霊塔建設主任山下義弘君より英霊名簿の顕彰題文の悩みを聴く 十雨答へて高濱虚子先生の句碑はと諮へば大いに賛す 依て即ち所持の短冊を擴大篆刻し建塔を記念して之を立てる 永への供華とならば諸英霊を慰め申さむか

 十雨は即ちホトトギス同人川田卓彌の俳号である。

(高知・勾玉社報)

室戸岬



龍巻に添うて虹立つ室戸岬

 この句碑は高知県安芸郡室戸岬町室戸岬の東方にある。高さ六尺二寸、幅一尺五寸、厚さ六寸の角碑で、昭和二十六年二月の建設に成る。昭和六年虚子翁がこの地に吟遊された時、岬の遙か南の海上に突如竜巻が起った。即ちこの作あり、地元の梧桐会、葦草会の発起により揮毫を請うて句碑が出来た。

 なお土佐にある虚子翁句碑は、建設年代順でいうと、貫之館址のが最初であり、次が室戸岬、それから伊野および弘岡下ノ村城念の順になるが、四基とも申合せた如く同じような型の角柱碑ばかりである。

都府楼址



   夜都府楼址に佇む

天の川の下に天智天皇と臣虚子と

 昭和二十八年十一月福岡県筑紫郡水城村の都府楼址(旧太宰府政庁の址)にこの句碑が建てられた。尤もその場所は現在史跡都府楼址として指定されて居る地域と街道を距てて相対する位置にある。高さ四尺二寸、幅一尺五寸。

   (中 略)

 虚子翁の「わびの旅」には、

五月廿一日、汽車にて博多へ。

都府楼址の句碑を見る。

天の川の下に天智天皇と臣虚子と   虚子

これも一昨年私の行くのを待って除幕するはずであつたもの。観世音寺も近く、花鳥山佛心寺もすぐそこにある。

とあった。俳僧静雲和尚の創建に成るその佛心寺の横に虚子堂が造営され、床には富永朝堂氏作木彫一尺四寸の虚子翁寿像が安置されて居る。鎌倉の虚子翁邸に在るものと同木同寸の一体である。尚、虚子堂の後ろの椎の林の中にはホトトギスや玉藻誌上にそのいきさつを書かれた虚子翁の古帯を埋めて、「帯塚」が建てられた。

 由布岳



大夕立来るらし由布のかき曇り

 別府から南西へ湯布院まで、バスで一時間、その途中に城島高原がある。鶴見、由布の秀峰を仰ぐ一面の草原で、湖あり、ヒュッテあり、山のホテルがあって、九州の軽井沢といわれて居る。

 姿勢の美しい由布岳を背景にして、道路の少し上、茶店の西の方に、徳山石と称する上質の花崗岩を磨いた太鼓状の句碑はある。直径六尺、厚さ八寸位。昭和二十七年十一月八日除幕式があげられ、虚子翁は年尾、立子両氏を伴って臨席された。

  こゝに見る由布の雄岳や蕨狩
   年尾

大夕立来るらし由布のかき曇り
 虚子

  これがこの由布といふ山小六月
   立子

と八行に併刻されて居る。

 虚子翁のこの句は、昭和二年夏、別府吟遊中の作である。この時、一行は湯布院金隣湖畔の亀の井別荘に一泊した。ここからの由布岳眺望はすばらしい。折からその年は日照りつづきで、農家もその他の人々も、しきりに雨を祈って居た。道々それを眺めた虚子翁の胸裡には、其角の昔語りが徂徠したでもあろうか。一天漸く暗み、慈雨まさに到らんとする由布の頂を仰いでこの作があった。

 鏡のように磨かれた碑面は、今もまともに夕陽を浴びて満月の如くかがやいて居る。

 山国川



古里の山国川に鮎釣ると

 「句日記」昭和二十七年十一月八日の項に、「遠入たつみ邸に建つるといふ句碑の句」としてこの句が記されて居る。大分県中津市蛎瀬の遠入巽氏邸の玄関前に、昭和二十八年一月三日、右の句碑が除幕された。高さ四尺、横約三尺五寸、厚さ二尺の御影自然石の正面やや左寄りに縦一尺一寸、横一尺三寸の額縁輪郭をつけ、四行に刻む。その他には何の記載もない。(中津・遠入巽氏報)

 日出城下



海中に真清水わきて魚育つ

 この句碑が昭和二十七年三月三十日、大分県速見郡日出町の城下海岸に除幕された。

 町は国鉄日豊線で下ると、宇佐、杵築など国東半島の頸部を経て別府へ南下しようとする二つか三つ手前の別府湾に面した一駅である。暘谷城址の城壁が海に向って聳え、城址にはいま幾つかの学校が建ち並んで居る。城壁の下は、崖一面に松その他の老樹が茂り、脚下は直ちに海面につらなる。

 昭和二十七年三月深見若水氏等の発起で建設された虚子翁句碑は、一本の老松の下に東面して建って居る。高さ五尺五寸、幅三尺、厚さ一尺五寸の自然石。碑陰によると、この句は大正九年七月十二日日出吟遊の詠であって、特異なこの地の情景がそのままに描写されて居る。

   (中 略)

 虚子翁は昭和二十七年十一月九日、この句碑を見にここに来られ、曾遊の昔を偲び、

   何もなき夕暮近き日出の海に

   鰯船一艘漕ぎ出づるところ

と、一首の短歌を残された。

柳川水門畔



廣ごれる春曙の水輪哉

 柳川市新町大水門の畔に昭和三十年八月二十二日この句碑が建立された。碑陰には「昭和三十年五月十五日来遊同年八月二十二日 柳川ホトトギス会建之」と刻まれて居る。即ちかの「わびの旅」の途次の吟で、虚子翁来遊から僅かに三ヵ月のうちに出来た早素い建碑であった。碑は曾て肥前多良岳から噴出された俗に「帆崎石」と称するもので、この地を郷里にもつ北原白秋の帰去来の詩碑と同一石材である。高さ三尺三寸、幅三尺五寸、厚一尺五寸の碑が高さ一尺五寸、幅六尺、奥行三尺の台石の上に据えられて居り、背後には水に面した名物の楊柳が風にそよいで居る。刻字の線は細いが、画仙紙三ッ切りの小ぶりな拓本にとっても、まことに鑑賞に値いする。

 江津芭蕉林



縦横に水のながれや芭蕉林

 虚子翁は大正四年、昭和三年、同二十七年、同三十年と四回熊本市に遊んだ。この句は二回目の昭和三年六月九日の作である。熊本市の東郊出水町に江津湖という小さな湖がある。湖畔の建物は当時料亭江津花壇と呼ばれたところで、今は井関農機会社熊本製作所江津荘という寮舎になって居る。井関の本社は松山市にあり、社長井関邦三郎氏は虚子翁と同郷のよしみから、昭和二十九年六月ここにこの句碑を建てた。碑の周囲林泉の水中には南国らしい自生の芭蕉の大株が、のびのびと多くの新葉をひろげて居る。

 碑は高さ約九尺、幅三尺、厚さ二尺、熊本市の西郊金峯山から運んで来た自然石である。(熊本・阿部小壺氏報)

 阿蘇小国



ちりもみぢ暫くしては散り紅葉

 虚子翁は、昭和二十七年十一月の初め、由布城島高原句碑の除幕式に臨んだあと、年尾・立子両氏その他一行総勢二十八名で阿蘇に向った。小春日に恵まれたその第一日目は長途車を駆って外輪山の遠見ヶ鼻に至り、末枯るる阿蘇、九重の大観を賞し、夜は小国の笹原耕春氏居に泊った。第二日(十一月一二日)紅葉の谿谷を縫うて杖立温泉に下り、やがて引返して宮原両神社の大鳥居前に車を捨てた。神殿の玉垣のほとりに歩を運んだ翁は、老杉の空を仰ぎ、桜の返花に目をとめつつ長い間佇んで居た。その日の俳句大会で発表されたのがこの句であった。またこの行によって小説「小国」は創作されたのである。

 七盛塚



七盛の墓包み降る椎の露

 下関市阿弥陀寺町赤間神宮境内に、平家の戦歿者を祀った遺跡があり、これを七盛塚という。昭和三十年十月、安徳天皇崩御七百七十年に当るというので、この塚の前方に虚子翁の右句碑が建てられた。高さ約五尺六寸、幅二尺の自然石に刻む。

 那智の滝



神にませばまこと美はし那智の滝

 案内記風に記せば、那智の滝はいわゆる那智四十八滝といわれる那智山南腹の瀑布群の総称で、吉野熊野国立公園の一部をなして居る。そのうちでも最も大きなのは、山麓にかかる一ノ滝。落高直下二七〇メートル、わが国第一の瀑布である。普通にはこれを指して那智の滝という。飛滝神社として祀る。碑は高さ六尺の角碑一ノ鳥居の左手に、聳える杉の木立を背景にして、もの静かに苔寂びて居る。

 虚子翁は昭和八年四月十日、同行数名とともにこの神域の探勝に向われた。そのことを思い出しながら、あまり近過ぎるせいか、滝の響もこだましない静寂の裡に私はひたって居た。

 嵯峨二尊院



散紅葉こゝも掃きゐる二尊院

 京都北嵯峨二尊院の參道を辿って、本坊に登る松繩手の石段の左側にこの碑はある。いかにも閑寂な、ここらしい場所に寂然と、しかもどっしりと建って居る。高さ六尺、幅二尺の御影石角碑で、昭和二十四年十一月三日虚子翁臨席のもとに除幕式が行われた。私はこの地を訪うて折柄の雨中、洋傘を碑頭にかざし、独り黙然と手拓三昧に浸った。

 琵琶湖中



湖も此辺にして鳥渡る

 滋賀県堅田町浮御堂の廻廊下、芦茂る湖中にこの碑は建って居る。昭和二十七年十一月の建設に成る珍らしい句碑である。「句日記」昭和二十八年十月十日の項に、「湖中句碑を見る」として、

   湖中句碑蘆の嵐につゝまれて

とある。昭和十五年十一月、虚子翁は母堂の五十回忌を比叡山に修せられた後、この地の風光を賞し、この作があった。

同じ句を刻んだもう一基の碑が、湖中句碑の建設者、堅田町の中井余花郎氏の庭園にもあるが、これは別掲リストの中に収めるにとどめた。尚、浮御堂の境内には、

   鎖開けて月さし入よ浮み堂   芭蕉

の句碑(寛政七年建立)も建って居る。

京都余瓶居

自らの老好もしや菊に立つ

 この碑は昭和二十九年秋、京都市上京区烏丸通一条下ルの中田余瓶邸邸内に据えられた。同氏から私に宛てた書翰の一部には「小園に今度俳友達が贈つてくれた虚子先生の句碑で、自らの老好もしや菊に立つ 虚子 とあり、これは私のことです。材石は加茂川の真黒石、彫手は宮崎桐一氏。とてもの名石で、もと持明院殿跡にあつたものです」とあった。高さ二尺五寸、横二尺位の庭石である。写真で見てさえ、その黒く艶々しい自然の光沢がしのばれる。

 余瓶氏は京都の人、本名与兵衛、ホトトギスの同人で、さきに「虚子京遊句録」「俳諧京」を世に送った。

昭和36年(1961年)、中田余瓶は69才で歿。

   四月二十九日 中田余瓶急逝

行く春のこの淋しさを如何にせん


中田余瓶邸は現在金剛能楽堂になっている。

 福光栖霞園



蜻蛉のさらさら流れとゞまらず

 この句は大正十三年九月十六日、栖霞山荘に於ての吟詠である。高さ四尺三寸の角碑で、昭和二十九年六月、福光俳句会の建設に成る。栖霞園は、もと紀州藩の儒官宮永菽園が造営し、明治初年前村謹堂によって再興されたものであるが、その後また荒廃し、現在復旧中である。

 場所は異るが、富山湾に面した新湊町は、いにしえの放生津である。元禄二年秋、奥の細道の途次、芭蕉は那古の浦で擔籠(たこ)の藤浪を探ろうと、その所在を尋ねたが、ここから五里の磯伝いにわけ入る山陰で、一夜の宿を貸す海士の苫屋もあるまいといわれ、ついに思いとどまった。那古は即ち奈良時代の那呉の入江、万葉の歌によって名高い。大伴家持の歌を刻んだ碑が、新湊町の放生津八幡神社にあり、同じ境内にはまた、

   早稲の香やわけ入る右は有磯海   芭蕉

の句碑も建って居る。社域は即ち有磯海の波うつところである。

 能登の輪島



能登言葉親しまれつゝ花の旅

 昭和二十四年春、和倉から更に奥能登へと吟遊されたときの社中詠である。

 碑は能登輪島一本松公園にあり、碑陰には「昭和二十四年四月二十八日 蝸牛会」と記されて居るが、建碑は当時の輪島町町会の議決を経たものであった。碑石は銅所にもとからあった要石という自然石をそのまま利用して彫り込まれた。高さ十二尺、幅六尺、厚さ三尺の巨石である。故川名句一歩和尚が真言秘密の儀を修じ除幕式を行った。

(東京・堀場定祥氏報)

 和倉海辺



家持の妻恋舟か春の海

 この句碑は昭和二十四年八月十四日、能登文化連盟によって能州和倉温泉海辺に建てられた。高さ六尺、幅一尺五、御影石の角柱碑である。この年四月二十六日、虚子翁来遊和倉一泊を記念するためにとのことが碑陰に刻まれて居る。

 場所は異るが、富山湾に面した新湊町は、いにしえの放生津である。元禄二年秋、奥の細道の途次、芭蕉は那古の浦で擔籠(たこ)の藤浪を探ろうと、その所在を尋ねたが、ここから五里の磯伝いにわけ入る山陰で、一夜の宿を貸す海士の苫屋もあるまいといわれ、ついに思いとどまった。那古は即ち奈良時代の那呉の入江、万葉の歌によって名高い。大伴家持の歌を刻んだ碑が、新湊町の放生津八幡神社にあり、同じ境内にはまた、

   早稲の香やわけ入る右は有磯海   芭蕉

の句碑も建って居る。社域は即ち有磯海の波うつところである。

 山中の山中



秋水の音高まりて人を想ふ

 昭和二十七年、山中温泉で全国俳句大会が催された時の作である。この句碑が翌昭和二十八年十月七日、同地菊の湯脇に建てられ、二回目の大会がまた同地で催された。菊の湯は同地の共同浴場であり、いま新たにその向うには大きな温泉会館という共同浴場が新築され、この句碑は丁度そこの広場の雑沓の中の、泉水の如く浴泉が流れる小区域の造園の一隅に位置して居る。高さ五尺五寸、幅一尺八寸の扁平碑に、縦一行に刻まれてある。

 下部温泉



裸子をひつさげあるくゆの廊下

 この句碑については、建設者の一人、富士宮市の堤俳一佳氏から次のような報告が寄せられた。

 虚子翁は昭和二十一年八月三十日、小諸疎開中初めて甲斐山中の下部温泉へ杖を運ばれた。この温泉は俗に信玄公かくし湯と呼ばれて居る。当日、ホトトギス六百号記念俳句大会が同地湯元ホテルの二階大広間で盛大に催された。その日のお作の中にこの句があった。この一句を句碑にしたいとお願いしてあったのが、再三の懇望で許され、昭和二十二年夏竣工した。その年中に除幕式をとお願いしたが、先生の御都合で翌年十一月二十三日除幕式竝に記念俳句大会を挙行した。

 碑石は俳一佳居の窓下を流れる雨河内川の上流から探し得た高さ五尺、幅二尺八寸位の砥川石である。只、今にして惜しいと思うのは、建立の年月日を不用意にも落したことである。此の際、、建立の年月は昭和二十二年夏、除幕式は昭和二十二年十一月二十三日と御記録をお願いしておきますと。

 明見の宿



この宿の九十の翁天高し

 この句碑は富士吉田市明見町に柏木白雨氏邸の前庭にある。昭和二十一年九月一日、虚子翁はこの家に来泊された際、白雨氏の祖父仁兵衛翁は、当時九十一歳の高齢を以て、なお十五人家族の畑作りから薪つくりまで采配して居た。その姿を眺めて、この句を詠まれた。昭和二十三年十一月の建立。桂川から得た高さ二尺六寸、幅四尺、厚さ一尺五寸の自然石である。十一月二十四日、除幕式当日の作に、

   三ツ峠越え来て落葉雨の句碑   虚子

というのがあった。柏木仁兵衛翁は九十四歳の長寿を全うして永眠された。

 月江寺



羽を伏せ蜻蛉杭に無き如

 同じく下吉田の月江寺墓地にこの句碑はある。昭和二十一年九月、ホトトギス六百号記念句会同寺で催されたとき、虚子翁は親しく林鞆二の墓前に詣で、この作があった。そこで白雨氏やその他の人々が協力し、てんでに土を盛ったり石を運んだりして、昭和二十七年六月、句碑が建立された。高さ二尺四寸、幅一尺二寸の扁平な碑である。鞆二はこの地の一洋傘職人であったが、病弱な身で大勢の家族をかかえ、苦しい生活と闘いながら、句作の道に精進しつつ、昭和二十一年に歿した。

 鮎の川



これよりは尚奥秩父鮎の川

 秩父長瀞駅の長生館玄関前に、昭和三十年六月、この句の碑が建てられた。幅三尺三寸、高さ一尺五寸、厚さ約一尺の根府川産扇形石材に刻んだもので、高さ四尺の自然石の台石の上に据えられて居る。昭和二十九年五月、この地に杖を曳いた虚子翁が、土地の人に請われて染筆したのを、秩父市在住の日展推薦、清水柏翁氏の鑿によって刻んだものである。碑陰には「昭和三十年 柏翁刻」とだけ記されて居る。

 伊豆の伊東



ほとヽぎす伊豆の伊東のいでゆこれ

 伊東市岡区広野のよねわか荘の玄関前にこの句碑がある。高さ四尺ほどの自然石(真鶴産の小松石)の上部に縦八寸、横一尺一寸の額面を磨き、右の句を刻む。よねわか荘はホトトギス同人寿々木米若氏の経営する温泉旅館である。虚子翁は昭和二十六年初夏、ここに遊んで右の祝句を寄せられた。

 長谷寺観音塔



永き日のわれらが為めの観世音

 鎌倉市長谷観音の鐘楼前に、一体の観音の小尊像が建造されたのは昭和二十七年四月のことであった。これは大麻唯男氏の愛娘が、闘病二十一年の後、三十五歳で永眠されたのを悼み、その冥福を祈念しようという発願で建立されたものである。

 台石の正面に虚子翁の右の句が刻まれて居る。

 犬吠崎



犬吠の今宵の朧待つとせん

 犬吠崎の燈台に行く少し手前右手の丘の上に、荒磯を背にして、この句碑が建って居る。高さ二尺七寸の自然石で、昭和二十七年七月、銚子ホトトギス会の建設に成る。句は昭和十四年四月、日本探勝会の吟行で来遊一泊された時の作である。何者の悪戯か、碑面にナイフで落書をした傷痕があるのは惜しい。

 成田の團蔵碑



凄かりし月の團蔵七代目

 千葉県成田市成田公園の不動橋上にこの句碑が建って居る。ちょっと風変りな句碑である。高さ六尺の台石の上にはもと七代目團十郎と六代目團蔵の銅像が建って居た。戦時供出の後、横六尺の扇形の自然石に前書とともに刻んだこの句碑が建てられたものであることは、碑面の文章によって明瞭である。即ち活字体のような書体で次の如く刻まれて居る。(この書体も虚子翁の筆蹟だそうである。)

成田の額堂に七代目團十郎の石像があったが久しく鼻が欠けたまゝになつてゐた(今は修覆されてゐるが)七代目團蔵が之を嘆き六代目團蔵の像と共に別の銅像を建立した其銅像大東亜戦争の為に逸早く応召した今度襲名した八代目團蔵は七代目團蔵追善供養の為残された台石の上に句碑を建てた

凄かりし月の團蔵七代目   虚子

   昭和十八年十月建

 七代目團十郎の裃姿の石像は、今も額堂の土間に据って居るが、格別すぐれた作でもない。七代目團十郎と六代目團蔵の銅像は、明治四十四年九月、六代目團蔵が七十六歳で歿した翌年建造されたもので、本邦俳優銅像最初のものだという。

 花巻の春

春山もこめていでゆの国造り

 花巻温泉の松雲閣別館裏山の沢山上に昭和九年四月、この碑が建てられた。高さ五尺八寸、幅一尺の石巻石、(稲井石)の角柱碑である。

 花巻の秋



秋天や羽山の端山雲少し

 昭和二年七月、さる新聞社の主催で、新日本八景の投票を募った時、ここの温泉は全国第一位の得票があった。虚子翁は親しくその実境を審査し大いにこれを推称せられた。昭和八年九月再遊の時、花巻温泉会社の需により、春秋の二句を揮毫され、翌年四月、前記の句碑と同時に、花巻温泉射的場にも建設されることになった。碑形も石材も二基ほぼ同様の角碑である。

 山寺銀杏樹



いてふの根床几斜めに茶屋涼し

 山形県山寺立石寺の根本中堂は慈覚大師創建の伽藍で、現在国宝に指定されている建造物は、正平十二年山形城主の再建に成るものと伝えられる。芭蕉が奥の細道吟遊の途次、ここに詣でて詠じた

   閑さや巌にしみ入る蝉の声   芭蕉

の句碑も堂側に建って居る。通路を距てた老銀杏樹の下に、虚子翁のこの句碑が建設されたのは、昭和十六年七月のことであった。高さ五尺二寸、厚さ六寸の細長い三稜形自然石である。

 鐺別温泉



澤水の川となり行く蕗の中

 昭和八年八月、翁が国立阿寒公園に吟丈を曳かれたとき、同月二十一日夜、大風雨の中を、一行数名とともに弟子屈町鐺別温泉の聖林荘に来て一泊された。

 幸い翌朝はからりと晴れた。翁たちは鐺別川畔を散歩し、野生の川原蕗を摘み、手料理で食膳に上すなど、俳一家らしい団欒の一時を愉しまれた。当時、鐺別温泉は戸数五戸しかない淋しいところであった。句はその折、宿の主人に請われ、画帖に書き残されたものである。昭和三十年八月、その筆蹟を拡大して同荘庭前にこの句碑が出来た。高さ十二尺、幅六尺、厚さ一尺五寸の屈斜路湖底から得た水成岩の自然石。やがて碑側に、建碑の由来を記した副碑も設けられることになって居る。(弟子屈・渡辺隆一報)

 登別笹ケ岱



囀や絶えず二三羽こぼれとび

 この句は、大正八年六月、高浜虚子は旭川市で開かれた北海道俳句大会に出席された時の作である。後に元の室蘭白鳥会の鈴木洋々子等が発起し、同氏数度の上京により、句集『五百句』の中から虚子翁の自選揮毫せられたものを鐫刻した。昭和十八年六月十五日竣工、同年十一月三日除幕式が行われた。高さ七尺、幅四尺五寸。神奈川県足柄下郡産本小松自然石の碑面を艶磨きしたものである。正前に地獄谷背後に大湯沼を望む幌別郡登別温泉の休養林内笹ケ岱の北部地点にたてられて居る。(室蘭・鈴木洋々子報)

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