『万葉集』(卷11)の読み人知らずの歌「思へども思ひもかねつあしひきの山鳥の尾の永きこの夜を」という歌の左注に「或本の歌に曰く」として、この歌がある。 |
足引の山鳥の尾のしだり尾のながながしよをひとりかもぬる この歌は山鳥の尾をしもなど長きためしにはよめるにかと思ひてたづぬれば、山鳥といふ鳥のめをとこはあれど、よるになれば山緒をへだてゝひとつ所にはふさぬものなれば、よの長くたへがたく思ふらむとおしはかりしことは、さらむものをこそはたづぬよする上に、かれが尾は鳥のほどよりは長ければよめるなり。かく夜になればわかるゝいもせなれば、人の家には尾をだにも取入れぬなり。 |
平成2年(1990年)1月、明石市身体障碍者福祉協会創立30周年記念に建立。池内艸舟書。 |
寛文12年(1672年)正月17日から21日にかけて、西山宗因は明石人丸社に奉納するための「明石浦人丸社千句」の興行に参加。 延宝6年(1678年)、山口素堂は西国下向の途次、明石で句を詠んでいる。 |
明 石 朝霧に歌の元氣やふかれけむ |
この海見たらんこそ物にはかへられじと、あかしより須磨に帰りて泊る。
雖猿宛書簡(貞亨5年4月25日) |
明和元年(1764年)8月、多賀庵風律は東国行脚の途上人麿社を訪れている。 |
人麿の御社は大くら谷松林の中にありはるかに淡路島こなたの洲崎に松の林長く流れてそう快を帯とす嶋かくれ行舟ハ霧の籬よりほころふぃ出てかきりなき眺望の神詠何心なきものも吟し出つゝぬかつくぬかつき下りけり |
明和5年(1768年)、加古川の山李(青蘿)は人丸山下に芭蕉の句碑を建立。10月18日、蝶夢を招いて句碑供養をした。 |
月高し塚は木の葉の山になる迄 | 蝶夢 |
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汐風さむくかきあわす袖 | 山李 |
『蛸壷塚』(山李坊令茶編) |
天明7年(1787年)9月13日、長月庵若翁は大坂湊橋から筑紫へ船出。人丸明神に登り蛸壷塚を見ている。 『播州名所巡覧図会』(文化元年4月刊)に「芭蕉塚 石壇の傍にあり 俳諧宗匠はせを翁 桃青の墳(つか)なり」とある。 |
文化12年(1815年)2月17日、青蘿の門人栗の本二世玉屑によって再建。 |
旅を栖とした芭蕉にとって明石は西の果てであった。この句碑は芭蕉七十五回忌にあたる明和5年(1768年)青蘿が創建、崩壊のため玉屑が復興、更に魯十が再建した。
明石俳句会 |
文化元年(1804年)、鶴田卓池は明石で句を詠んでいる。 |
赤 石 蛸壺の明石を立て帰鷹 |
文政10年(1827年)、鶴田卓池は長崎へ旅立つ。 |
明 石 夏めくや月もあかしの舟どまり |
明治38年(1905年)9月25日、長塚節は人丸社を訪れている。 |
明石人丸社 淡路のや松尾が崎に白帆捲く船明かに松の上に見ゆ |
昭和10年(1935年)10月15日、高浜虚子は人丸社を訪れる。 |
人丸社。 神とはに見る朝霧の明石の門(と) |
寛文4年(1664年)10月、明石藩主松平信之は和歌の隆盛を願って豪壮な人麿顕彰碑を建てた。台の亀及び碑文上部の双龍の彫刻は、中国風で品格もある。銘の撰文は、幕府の儒官であった大学頭林春斎によってつくられ、人麻呂の伝記が記されている。 |
貞亨元年(1684年)4月、大淀三千風は柿本神社で「祠堂碑」を見ている。 |
○偖明石人麿社。別當月照寺笑外堂頭に謁す。同幣屋花蝶子に細談。饗(もてなし)大かたならず。祠堂縁起は。古太守源信之君。寄進。大基の碑銘。弘文院長編に分明なり。予も海浦眺望の一軸せしが略。 歌塚や夢世の枝折杜鵑 |
文化元年(1804年)8月19日、太田南畝は小倉に赴く途中で人丸社を訪れ「石碑」を見ている。 |
石坂を上りて人丸社あり。宮居のさまつきづきし。大きなる石碑たてり。林春齋の文にして、寛文四年庚辰明石城主日向守源信之と記せり。次なる堂に額あり。人丸山とかけり。堂の前に梅の木もて、船の形をつくれり。かのほのぼのといへる詠によれるなるべし。山の上より明石の浦見わたされて、勝地といふべし。 |
嘉永4年(1851年)3月17日、吉田松陰は藩主に従って江戸に向かう途中、人丸社を訪れて「碑」を見ている。 |
明石城中を經て大藏谷に宿す。驛傍中に人丸社あり、往いて觀る。碑あり、末に署して曰く、「明石城主松平日向守源信之立つ」と。 |
天離る鄙の長道ゆ恋来れば明石の門より大和島見ゆ
『万葉集』(巻3−255) |
大君は神にしいませば天雲の雷(いかづち)の上に盧りせるかも
『万葉集』(巻3−235) |
關もる跡は絶ぬれど、所の景にとゞめられて、こゝにて時をうつし給ひしかば、こよひはかつあかしまでなり、先、人丸塚にて四方をのぞみ、しばしありてぞやどりはしめ給へる、月の頃ならばいかにおもしろからましなどいひあへり、三日には又此浦を立給ぬ、かへらん時は秋の夜の月のかり臥にてぞあらましなどいひて、 歸るさは月みむ秋と契をきて明石の浪に立そわかるゝ、 |
元和8年(1622年)4月5日、明石城主小笠原忠政が人丸社を建てられ、遷宮。 |
元禄11年(1698年)4月、各務支考は西国旅行の途上、人丸社に参詣。 享保6年(1721年)、田中千梅は人丸塚を訪ねている。 |
明石に至る人丸塚は少し妻手に引入松林ひら山のうへに立つ碑の銘あり昔当城の主松日向守建之ヲかたはらに盲杖竹在まことあかしの浦ならはとねり出して忽に目のひらきぬる哥道の妙義はさる事なから仕合座頭なりけんかし神祠に詣す 号正一位人丸大明神ト 拝殿より彼海原を見渡ス其風景言語を断ツてたゝ泪のおつるはかり也しはらく此処に時をうつす まつ嬉しほのほの明に厂の声 鰯引舟も拝ムや霧の海 |
延享3年(1746年)、佐久間柳居は人丸社で句を詠んでいる。 |
朝霧のあとを立てや翠簾一とへ |
明和8年(1771年)10月、加舎白雄は人麿廟を参拝。 |
明石歌聖廟前 神歌や海は冬木の木の間より
『須磨紀行』 |
文化8年(1811年)3月、田上菊舎は大坂に向かう船で明石の沖から人丸明神に参拝している。 |
明石の沖より遙に人丸明神を拝し奉りて |
一きはの雲は人丸桜かな |
この子午線標示柱は、日本標準時の基準である東経135度子午線の位置を示しています。 東経135度子午線は、昭和3年(1928年)に京都大学観測班が天体観測を行って明石市の人丸山上を通過していることが分かりました。この結果、昭和5年(1930年)1月、月照寺山門前にこの標示柱が建設され、「トンボの標識」の愛称で呼ばれるようになりました。そして、昭和26年(1951年)の再観測で現在の位置(11.1m移動)に設置されています。 標示柱は、高さ約7m、鉄柱の直径15cmで、上部のカゴ状の球は地球を表し、球の上には「あきつ島」(日本の異名)を象徴したトンボ(あきつ)がのっています。
明石市・明石観光協会 |
弘仁2年(811年)、弘法大師が赤松山(現:明石城本丸)に湖南山楊柳寺を建立。 仁和3年(887年)、覚証和尚が大和国柿本寺から十一面観世音菩薩を勧請し、柿本人麿祠を建て、寺号を月照寺と改める。 元和3年(1617年)、赤松山に明石城が築かれ、現在地に移った。 |
灯火の明石大門(おほと)にいらむ日や漕ぎ別れなむ家のあたり見ず
『万葉集』(巻3−254) |
貞亨2年(1685年)11月15日、大淀三千風は淡路島の岩屋から明石の月照寺に着く。 |
本の岩屋にたちかへれば。國守の舸(はやふね)に幸ありて。明石の月照寺につきにける。漸寒(やゝさむ)になれば旅衣も興つきて。霜月十六日明石を立つ。此道すがらは前巻に記しぬ。大坂に一宿して。古郷伊勢に越年し。明春寅に都にのぼり。東山道にこゝろざしぬ。
『日本行脚文集』(巻之五) |
○明石月照寺人丸社前 そもそも淡路の孤島は姿神代のまゝにして塞す崩れすへらすふえす東西に長う浮み人麿山に向ひあふ其間大洋わつかに三十餘丁をへたつ蒼波澹々として流れす詩客は媚て名月池とも見るへし中に鹿の瀬といふあり鰌魚穴に入て潮のいからさる時は鶴の脛あらはにたつ 萍の池となりけり海の形 |