多賀庵風律

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『紙魚日記』

 明和元年(1764年)8月4日、多賀庵風律が広島を出発して京坂・田子の浦に旅をした時の紀行。田子の浦から帰路に着き、9月16日、京に帰る。

八月四日の暁鶏の聲もいつもよりハはなやかに横雲はなるゝ頃矢賀といふ所にて人々に名殘をおしむ

   茶屋も今古酒に新酒の別哉

すへて備中国には辻堂あり備の前後にもあり佛も何もなくて只行人の休ミ所とす參宮同者のたくひも夏天に凉ミ冬ハ雨あられをしのきて異境を問ハすこゝろひとつに道の程を談す恩愛行人におよふいかなる人かはしめけむ爰を過て吉備の中山あり麓に吉備津宮立せ給ふ備前の吉備の宮もあり社地並ふに似たりいつれも大壮観也

人麿の御社は大くら谷松林の中にありはるかに淡路島こなたの洲崎に松の林長く流れてそう快を帯とす嶋かくれ行舟ハ霧の籬よりほころふぃ出てかきりなき眺望の神詠何心なきものも吟し出つゝぬかつくぬかつき下りけり

須广の浦むかしは淋しき名を得て行平中納言ハ問ふ人あらハとよミ給ひ紫式部ハ爰より筆をはしめて若木の桜に風情を見る

須广寺には青葉の笛熊谷か母衣弁慶か制札あり

葉月に都を出て伊勢の方におもむくやかてあふ坂の関を越けるに

   秋深し針賣る家も松風も

秋聲の賦なと思ひ出けり十九日膳所の義仲寺に詣すはせを翁の墓にて

   寐まち月朝日と申す隣あり

雲津にかゝるほと左ハ海右ハ稲葉そよきて田鶴所々にあそふさて本意の如く伊勢の神垣に詣侍りて

   かゝやきて身にしむ秋の日脚哉

只有難きとはかりみな涙こほしつゝぬけ參の童とともに立出けり是より東海道に趣かむとす道はるかにしてうしろめたし駕籠に乘る病身立事あたハす左計右謀如何せんしかるに力つよき人生れあひて駕籠に乘せて我をたすけたり今宵の泊如何とおもへは宿のあるし迎ひ出て是へ是へとまねきけり世界の廣き事かくの如し

   秋の野や二人の肩をかりの宿

是より東海道の名を知るさやをまハりて熱田の宮に詣す外に三社或ハ八劒の宮なと有て実もあつたの宮居なるへし

濱名の橋ハ只名のミなりさて荒井の渡し也代々神楽五六人乘合て舟賃に神楽舞する此日濱枩にとまるあるしの心たのもしき也

   九の夜とおもハン菊に草枕

今日塩見坂に休らふ右に遠江洋見えて左にはしめて富士のあたまさし出たり都を出て十二日也

大井川にて

   川越も四十の錢や秋のくれ

佐夜の中山より菊川に下りて宇津の山に着く旅ハ馴し友もなく常に見たる人もなくて時々さひしかの皃ハ誰ならんとおもふに額に浪をたゝへたり是ハかれならんとふとおもひ出さるゝにほんのくほに瘤ありて其人とも見えす此人の鼻すこし高くハ誰ならんなとおもふなるへし宇津の山邊のうつゝにも夢にも人にあハぬと詠められしハ此あたりの事にやとあはれ也

   旅人を人に見せはやうつの山

観音堂有小挙の來りて岡崎の観音茶を吸やれといふは此堂也参り給へとおしへけり奥津に着て清見寺へのほる関の跡も爰にや三穂の松ハらをのそミ時をうつす暁より出て駅のうしろに行田子の浦へとこゝろさしけり芙蓉の流れ左にありてよし原沼津をゆひさす正面はるかに伊豆の国見えたり三保の松原此前にあり田子の浦ハ爰なりと語る朝暉伊豆の海よりのほりて眺望かきりなし冨士ハ所々よりなかめてかゝる風景に座す是そ生涯の思ひ出とおもひさためて是より帰路に趣けり九月四日なり

江尻に着て富士をのそむ此秋いまた雪を見さるよし唯うつくしく覚えたり草なき村ハ日本武尊東夷御征伐の故あり狐か崎ハ梶原か打たれし所なるよししつはた山の麓に淺間社あり阿部川を渡りて手越村爰は長か娘重衡卿をなくさめし所也さてまり子の宿なり右の方六丁計行て柴屋寺有是連哥師宗長隠遁の所也其庭乾の方に天柱山ありいと高くて幅狭く松少ありておかしけなる山の姿也吐月峯あり池あり植置ける柏松梅有墓ありすへて此地山中の谷にて木深く苔むしたりさすかに宗長のすみやか也

   宗長も蕷を堀けり柴屋寺

腹川や背川の水の底清ミといへる腹川の駅あり川は駅の右の方に流れて町はつれの橋の下を通りて海道の左の方に流れたり道をはさミて流れ行ハ実も腹川背川なるへし池田の宿を過て天龍川を渡りさて荒井也清明にして富士あきらかなり赤坂藤川を過て岡崎の宿也戌亥の時過る頃奥の方に老たる女の聲してひそひそとものいひ行燈引つりて次の間の人を起すともし火消たるとて叱る戸あくる音あらゝかにていかなる事の出來ぬるやと長き夜の寐覚おほつかなきにやゝおもひあてたり

   秋の夜や宿ハ子を産む湯の用意

矢はきの橋を過て長者の跡あり其寺に浄類理姫の墓ありといふ竹戸いまた開かす茶屋に休らひて此事を語けるに住持朝寐の癖ありといふ又行けるに門猶あけすさのミハとて過けり今日菊の節句也道々童部ともの着ものあらためてあそひけるにふと古さとを思ひけり

   茶屋の菊水のやうなる酒買ハむ

八橋村の八橋の跡とて有池鯉鮒の駅より鳴海のあたりまて山ハ堤の如く左右に並ひて高き山なし左に少高き山見えたり二村山にや其外ハ空色の如き遠山はかり也笠寺より星崎呼つきの濱松風の里夜寒の里みな此沖の方に見えたり稲葉より出て美濃路に向ふ暁天晴ワたりて駒かたけをのそむ萩原を經て尾越川すのまた川を渡るやゝ大垣ちかし誰人にか逢て朝長の墓を尋むと心かけけるに町のはつれにむそち計の僧の立たるに近つきて朝長の墓ハいつれに侍るそと問けるに是ハ墓参する人にやかゝる墓ハしらすと答けり

美濃の国赤坂を出て小安天神社青墓の宿青野か原熊坂か物見の松とてあり

   鳶の面柿に向けり松の上

垂井を過て野上の里いかにけふ過行かんといひあひけり養老瀧ハたる井より三里はかり左の方高く尖りたる山のもとにひくき山あり其谷也其脇に清泉あり是を菊の水といふ也人すまぬ不破の関屋の板ひさしもなくて只両側古き石かけにて人家つゝく

   鶏頭や関のしるしハ是はかり

月見の宮といふハ人家の左の奥也其正面に山あり絶頂横に長し此上に月のはなれ出るを見るよし也関の藤川山中の里ときハ御前の墓あり美濃の御山麓に南宮立せ給ふかの寐物語を過ていふき山高く聳ゆ柏原さめか井番場に越後守仲時か辻堂あり是より多賀の御社に詣けり老曾の森ハ此あたりならんと尋行けり海道のはたにて家十四五軒もあり所の人に尋けるに爰を老曾と申也このうしろ老曾の森也と答けり実も其家のうしろみな森也此木陰たのミける家のさまなつかしさらは今宵の月見むとて木陰に日を暮しけり

   後の月誰か老曾の森家

此夜武佐にとまる清光最中におとらす夜もすから月見むとてやり戸明はなしけるに夫婦いさかひしてかまひすし一間にはいりて省居たり鏡の宿雨ふりて鏡山も曇る年を經て今咲けり鏡山ハあの方にてはかゝミ山也こなたにてハしのハら山也かゝミしの原つゝきてしのはらハ嶮也鏡ハ平らかなり

   鏡山裏の花野や見て行かむ

やすの川を渡り草津を過てちいさき流れありすこし上に流行溝あり是を野路の玉水といふよし里人いへり是玉川にやと小萩にこゝろつきけりかくて石山寺にまいりて勢田の茶屋にとまるあるしに近つきて店より此浦山を尋けるに竹生嶋ハ是より十三里堅田ハ八里計有と指さしてあれなるハ矢橋のうら也出崎と見えたるハ山田也松の林しけりて森の中に白く見えたるこそ山田の五兵衛蔵也とくハしく教けり行々て長等山をのそミ志賀の里を經て辛崎にいたる名高き峯々浦々蜆とる舩みな秋色

   秋の日の暮れ所見む鳰の海

九月十六日にハ都に帰りて旧識に逢ひ或ハ聞慣れたる人々に逢ひふるさとの文なと見て古郷に帰るか如し是よりしれる人に友なひ洛陽の旧跡殘りなくと心さしけり

もみちの比ハ四方山をなかめて目の行所枝折となれはいつくと定かたきに神護寺東福寺を最上といへり高雄山にて

   古郷へハぬすミて帰る紅葉哉

十九日には宇治に行けり木はたの里に馬もなくてかちよりそする所々のもみちふミワけて離宮に詣けり宇治のみこかくれさせ給へると聞えしいと高き所にしるしの石ありおかミめくりてみな泣けり此みこ御位ゆつり給ひてそなにはのみこ御位にハつき給ひけるさて平等院にまいる爰ハ宇治の大臣との作りみかゝせ給ひて鳳凰堂の鳥もつはさひろけてよそほひしたり木々のもみちも落葉していにしへの彩色あらハに仏の御皃もまはゆきまてこまやかなれはいかなる罪科も消なんとうはいハ珠数すりて念し入たり橋姫ハ此橋もり給ふにや人の忍路まもり給ハんと供人なとハつふやきけり此所ハいろいろのいくさありてことことしく草紙にも書とゝめけり川霧立こめたる中にいとちいさき舟に乘るまきのしまといふ所なり

   茶の花や茶のさめぬ中下り舟

難波津に淺生庵あり後に無名庵といふ野坡翁の住める所也懐旧

   ありの実に梨子にさまさま庵さひし

爰には書事もあまたあれと又かさねてと筆をとゝむいつミの国堺の浦にしるへあれハむかしの跡も見まほしくて行けり先阿倍野の方ゆかしくて爰よりとこゝろさす野中に中納言顕家卿の塚とて松一木あり此きミ元弘の比たけき大将にて朝家の覚もはなやかなりし千歳に名をとゝめ給ひけりやかて住吉の浦にかゝり淺香のうらあられの松原を過てかの津に到る杏雨のもとをあるしとす嘉叔青衣是人金鈴其外のあそひ敵なととりとりの物語日々に遊観をなすしハらく旅情をうしなふに似たり

住吉の社神さひたりぬさ奉る今日小春の雲暖に海の色も空にやかよふらん岸の向ひのあハちしまあさやかにて姫枩ハかれか麓にあるかと思ハる庭神楽のをとめの袂神もめてさせ給ふらんとおもひおもひぬかつく松の中に橋の見えたるそ繪にも見て置たれハなつかし

   住吉は御代の名そかし庭神楽

 明和甲申晩冬      廣陵   風律

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