旅のあれこれ


石田三成ゆかりの地

『九州下向記』(是齋重鑑著)

 慶長3年(1598年)5月29日、石田三成は豊臣秀吉の命により京を発ち筑前国に赴任。6月16日、博多に着く。7月5日、博多を出る。15日、帰京。

慶長三年の夏、太閤大相國のおほせにしたがひ、石田治部少輔三成、國の事おこなはんとて、筑紫へくだり給ふに、此ついで名ある所々をも一見すべきやなど、おうせらる、もとよりの、のぞみなれば、供し奉りぬ。先五月廿九日に京をたちて、伏見より舟にて大阪へおもむく、船中友とする人は獨なかりしが、あまたにもまさりて酒興度々也、身をうき草の理も思ひ出られて、さそふ水に任せて着岸す、晦日は三成のやかたに遊び暮らして、朔日の曙船出の供也、あまが崎へあがり給ふて、ある寺にしばらくやすみ給、さかづきの催しなど事はてゝより、兵庫にいたりてとまり給ぬ、あくれば又旅だち給ふに、御宿のあるじ宗暦發句所望せられしかば、さはがしき折ふしながら、心ざしのわりなさをのがれかねて、

   涼しさも遥けき浪の洲崎哉、

わだのみ崎こゝなれはや、繪かく事に妙なる友松と云人は、都出るより、かりのやどりまでもおなじやうにと、かたらひけり、須磨の浦にきたりて、源氏の君、この浦山見給て、御繪いみじうまさりけるむかしを思ひて、

   詠てや思ひわくらんうつし繪の跡まさりけん須磨の浦浪

關もる跡は絶ぬれど、所の景にとゞめられて、こゝにて時をうつし給ひしかば、こよひはかつあかしまでなり、先、人丸塚にて四方をのぞみ、しばしありてぞやどりはしめ給へる、月の頃ならばいかにおもしろからましなどいひあへり、三日には又此浦を立給ぬ、かへらん時は秋の夜の月のかり臥にてぞあらましなどいひて、

   歸るさは月みむ秋と契をきて明石の浪に立そわかるゝ、

くるれば姫路にとゞまり、四日には、先、むろの津にいたり、やすみくらしてぞ舟には乘給へる、

六日の御とまりは、忠の海なり、ひるは鞆の浦にぞやすみ給し、七日は川尻迄にて、八日にぞ嚴島へ舟をよせ給へる、あくる日は此嶋にあそび給ふ、さまざまの神だから共拜覽の中に、法華廿八品を一巻づゝ平家の一門書給へるあり、軸、表紙、紐のかざり今の世にあるべしともおぼえず、分て平相國の筆跡は人々目をおどろかす所也、此外同筆の願書もありき、山のたゝずまひ、浦のけしき、いみじき繪師も筆をよばずやあらん、しほみちきては、はうはうとしたる廻廊の下にたゝへたり、さる時は、鳥居は猶浪の中也、其興に催されて、

   みつしおのなかはひたせる神の門や龍の宮古に立つゝく覽、

又、大聖院座主の御坊、發句せよとありければ、

   夏ぞみむ軒の山松庭の海

十日にくばといふ所へ船渡りし給ひて、馬をすすめ給ふままに、高森といふ所、富田と云ふ所、各一夜づづにて、十二日に天神の府まで也。これ則ち周防の府中也。菅丞相左遷のいにしへ、舟よせ給ひし所とて大社あり。前なる海こそまりふの浦と云ふ名所なりけれ。御宿の圓楽坊重惠所望に、

   秋の色は茂る木のまのいがき哉

十三日の朝、一里ばかりを過ぎて、又舟にて関門(セキノト)へ着き給ひぬ。あくる日もここにとどまり給へり。阿弥陀寺と云ふ寺に、平家の一類入水の所のしるしとて、其御影ども堂にあり。安徳天皇の尊形は木像にて、八歳の御わらはすがた、まことにさりぬべきさまなり。さきざき一見の人々の短冊どもあり。其人まなにはあらねど、心のうちの手向ぐさに、

   沈みけんよはひ八重のしほあひの浪は昔にかへる袖かな、

十五日はあしやに日たかくつきて御身をやすめらる。明ぬればをのをのいそぎたちて、博多へもいととくつき給ふ。此わたりに名所どもおほかり、しがの島先まのあたりにひかへり、海の中道ははるばると一筋浪を分たる白洲也、山までつゞくとよめるもしるくぞみえたる、海の中道より、しがの島へわたる所こそ、しかすかの渡なれ、香椎宮も遠からず、筥崎の社は異國降伏のため西をまもれると聞傳へしも僞ならず、思ひよりしまゝに、

   他國もしたかひにけりかゝる世を待てや神のちかひあらはす、

博多の松原につゞきたる所也、ある時三成正松原に遊給ふ、いと凉しかりければ、

   松原はこぬ秋風のやとり哉、

廿六日まで、こゝにとゞまり給へり、國のをきての事共によりてなり、廿七日には宰府へかへり給ふ、道すがら又みる所どもおはし、かるかやの關は名乘とがむるさ(たカ)よりもなし、四王寺の峰は此うへ也、天拜か岳も見わたしや。都府樓の瓦の色、觀音寺の鐘のきゝ(ひゞきカ)、いづれも菅丞相の名句にありとか、其所を尋ぬれば、都府樓は跡かたもなし、瓦の色はもとの土とや成にけん、觀音寺の鐘の響はかはらずやあらん、本堂のみわづかに殘れりといへども、扉も軒もあらはなれば、雨は佛のみかほをうるほすとぞみえたる、額は道風の手あとたゞしくてあり、嚴島の鳥居の額も此筆なりとか、誠に筆のいきほひおもかげさながら也、思ひ出たるまゝに申侍りぬ、鳥居には兩方に額あり、内は東風、伊都岐島と書たり、外は清盛の手にて嚴島とありき、天神の社は隆景と申せし人の再興也、されどもあたりあたりはみなあれしまゝ也、三成此頃大鳥居の住僧信寛に命じて、安樂寺、東法花堂、西法花堂、廻廊、僧坊ども、經藏、鐘樓などたてらるべき事、但(マゝ)おこなはる、廿一の末社の事は、いふにたらず、塔の修理、橋の欄樫、しそへらるべき事、池のみくさもかれはらひ、流せきいるべき所々をも、今ぞ定をき給へる、此おりふし、信寛所望、

   宮柱ならはゞ猶や夏木立、

又、わたくしの宿坊、長次坊信讃發句こはれしかは、

   すむ水も時ある花の蓮哉

と申せしは、廿年前此池に植たりし蓮實終に其しるしなくて、今年はじめて生ぜり、不思儀ともいはゞいひつべき事と、人々沙汰ありしを思ひてなり、しかるに後きゝぬれば、信讃池水のあづかりといへり、自然の出あひ也、あくる日あひそめ川などみて、甘木の郡へこえ給て、其又の日は三井といふ所へより給て宰府へ歸り、一夜あかしてはかたのもとの御やどりへぞ入給ぬる、昨日はみそぎ、けふは秋たつ日なれども、何の興もなし、二日には浦人ども、あみとゝのへて、網手引しわざしてぞ、見せまいらせける、御のぼり程ちかくなれば、さやうの催し共にて三日はまぎれ暗し給けり、四日もをのをの同じいそがはしさなれど、友松とわれらは人に似ぬしづけさにて、いとま給ていきの松原見にぞいにける、道すがらは舟なり、五日に博多を出で、あかまといふ所に一夜旅枕にて、關門へぞ著給ひける、七日には舟人ども風あしゝと申ければとゞまり給ぬ、旅にしあれば、夢の心もなかりしに、人のすゝめ給ぬねば、

   天河稀なる中もわたるてふこよひしもなと舟とゝむらん、

八日の夜はいはやといふ所に舟をかけ、九日に天神の府までなり、御やどりもありし所也、十日には、富田、花岡などいふ所々にて殘暑をしのぐ、木蔭の宿りもとめてまぐさとりかひなどせしかば、高森へは暮ふかくつき給ぬ、氣さは、くばまて馬にて、やがて舟にうつりておんどか迫門まで也、あくる待あへず舟出して、暮ぬれば鞆に一夜のかりねし給、あくる日は宇嶋門へいたり、こゝなども、こよひ過給はんとし給ひぬれど、沖は波たかく風もむかひしかば、よきとまりにて明し給へり、月のおもしろかりければ、獨ことに

   浪風を舟にうしまと思ひしもわすれて月にかち枕せり、

小嶋ちかきわたりにて恕慶所望に、

   月の色にもれたる波の小島哉、

曉よりこぎ出て、播磨の國しかまへ舟をよせ、これより又陸地の歩行也、しかまのかちとは此事にやあらん、よるともいはずひるともいはずいそぎのぼり給ふ、あかしの浦の月こそまことにおもしろかりけれ、

   影見えぬ比しも過しうらみさへこよひあかしの月に晴ぬる、

十五日のひるつかた山崎をへて伏見へぞ、三成は馬をはやめ給へる、都出し日の契たがへず、友松と相伴ひ、ふたりばかりはすぐにぞ入ぬる、かかれば、旅のつかれをかくとに筆をなげうちぬ、

慶三
   是齋重鑑

 七月十五日

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