『奥の細道』 〜東北〜
〜蚶満寺〜
道の駅「象潟」から蚶満寺へ。
廷暦年間(782〜806)に比叡山廷暦寺の慈覚大師円仁が蚶満寺を開山したと言われる。
宗派は天台宗から真言宗と変わり、現在は曹洞宗。
天和3年(1683年)、大淀三千風は象潟の蚶満寺を訪れた。
蚶満寺に芭蕉像がある。
元禄2年(1689年)6月15日、芭蕉は酒田から象潟に向けて出立。朝より小雨。昼過ぎ、遊佐町(吹浦)に到着。強雨のためここに宿泊。翌16日、吹浦を出発。雨の中を象潟にやってきた。
「蜑(あま)の苫屋(とまや)」は能因の歌「世の中はかくても経けり象潟の海士の苫屋をわが宿にして」を引用。
芭蕉像の右手に芭蕉の句碑があった。
象潟の雨や西施かねふの花
蚶満寺蔵の「芭蕉象潟自詠懐紙」による。
『奥の細道』の句の初案である。
蚶満寺山門
6月17日は晴天。芭蕉は「神功后宮の御墓」と云う「干満珠寺」に参詣。
夕方雨やみて、処の何がし舟にて江の中を案内せらるる
花のうへこぐとよみ給ひける古きさくらも、いまだ蚶満寺のしりへに残りて、影、波を浸せる夕ばへいと涼しければ、
夕ばれやさくらに涼む浪の華
此句は古哥を前書にして、其心を見せる作なるべし
「花のうへこぐ」は西行の歌「象潟の桜は波に埋れて花の上漕ぐ海士の釣り舟」によるという。
象潟西行さくらにて
夕はれや桜にすゝむ波の花
西行桜は象潟のうち甘満寺の入江を覗きてあり。山家集に「象潟のさくらハ浪にうつもれて花のうへこく蜑の釣舟」
『山家集』にはない。
遠く修行し侍りけるに、象潟と申所にて
松島や雄島の磯も何ならずただきさがたの秋の夜の月
元禄5年(1692年)、各務支考は伊東不玉、図司呂丸と共に象潟に遊ぶ。
元禄9年(1696年)、天野桃隣は象潟を訪れて句を詠んでいる。
元禄10年(1697年)、広瀬惟然は象潟を訪れて句を詠んでいる。
享保元年(1716年)7月4日、稲津祇空は常盤潭北と奥羽行脚。象潟を訪れている。
享保12年(1727年)、魯九は北陸から象潟を訪れている。
享保20年(1735年)、廬元坊は鶴岡から新潟を訪れている。
元文5年(1740年)、榎本馬州は『奥の細道』の跡を辿る旅で象潟を訪れ、句を詠んでいる。
寛保2年(1742年)夏、佐久間柳居は象潟を訪れた。
延享4年(1747年)、横田柳几は陸奥を行脚して象潟を訪れている。
宝暦2年(1752年)、和知風光は『宗祇戻』の旅で象潟を訪れている。
宝暦5年(1755年)4月17日、南嶺庵梅至は象潟を訪れている。
宝暦10年(1760年)4月25日、山形の俳人雨声庵山皓は蚶満寺で句を詠んでいる。『笠の連』
明和6年(1769年)5月、蝶羅は嵐亭と共に象潟を訪れ句を詠んでいる。
安永2年(1773年)9月4日、加舎白雄は象潟を訪れている。
安永6年(1777年)7月19日、松村篁雨は象潟を訪れた。
象潟
天明4年(1784年)9月25日、菅江真澄は小砂川に入って2泊し、27日から29日まで象潟に3泊している。
寛政元年(1789年)8月9日、小林一茶は象潟を訪れた。
寛政3年(1791年)5月16日、鶴田卓池は象潟を訪れた。
寛政3年(1791年)、吉川五明は象潟で句を詠んでいる。
象潟や森の流るる朝かすみ
享和2年(1802年)9月9日〜11日、伊能忠敬は象潟を測量している。
文化元年(1804年)6月4日(7月10日)、象潟地震で象潟は隆起し、今は舟を浮かべることは出来ない。
同日、常世田長翠は象潟で大地震に遭い、鶴岡に逃れる。
翌5日、小林一茶は田川で象潟地震を知る。