俳 人

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呂丸(露丸)

 山形羽黒山麓の手向村の人。図司左吉。近藤左吉とも称した。染屋を本業としたそうだ。

 元禄2年(1689年)6月3日(陽暦7月19日)、芭蕉は羽黒山に登り、図司左吉を訪ねた。

羽黒山五重塔


 六月三日、羽黒山に登る。図司左吉と云者を尋て、別当代會覚阿闍梨に謁す。

『奥の細道』

 6月10日(陽暦7月26日)、芭蕉は羽黒山南谷別院を立ち、図司左吉に送られて鶴岡城下の長山重行宅へ。

   元禄二年六月十日

      七日羽黒に参籠して

めづらしや山をいで羽の初茄子
   翁

蝉に車の音添る井戸
   重行

絹機の暮閙しう梭打て
   曾良

閏弥生もすゑの三ケ月
   露丸


 元禄3年(1690年)、路通は羽黒の呂丸を訪ねた。

 元禄5年(1692年)、各務支考伊東不玉、図司呂丸と共に象潟に遊ぶ。

  同年、『継尾集』(不玉編)呂丸序。

  同年8月、羽黒を発ち江戸深川に芭蕉を訪ね、『三日月日記』の草稿を譲り受けた。

 其撰もいまだ半端なる比に、羽黒の図司呂丸といふもの、年まだ若きお(を)のこながらも、風流の旅寐おもひ立て、そこの松嶋・蚶潟より武江の芭蕉庵にもしばしばやすらひ、もろこしの芳野はいざしらず、須磨のあかしをも見残さじと、都に其年も暮けるが、明るきさらぎの始ならん、世ははかなくて、身まかり侍りぬ。しかるに其お(を)のこ、かの芭蕉庵のやすらひに、『三日月日記』の草稿を行脚のかたみに乞ひ請て、先とて古郷につかはしけるとぞ。

元禄6年(1693年)2月2日、京都で客死。

出羽の国羽黒の麓なる図司なにがし呂丸、四とせの先ならん、宮古の方をゆかしがりて、古さとは葉月の中比にうかれたちて、野店の月・山橋の霜、かねておもひぬるまゝにわびけると也、かくて武のばせを(う)庵に旅ねして、しばしの秋をお(を)しみ、洛の桃花坊にかりゐして、春のやがてきたらんといふ事をまつ。 その春の花も半ならんほどは、支考にくみして、大和路の行脚もすべきなど、さゝめかしおもひけるに、む月の中比よりやみつき侍りて、何のすべきやうもあらで、春も二月の二日なるに身まかりける也。されば、此郎は門にまたるべき子さへありて、妻はいとわかくて侍り。その夢にあえ(へ)ぬつまこに、此便きかせ侍らば、まづ人をなむうらみぬべし。 それ雲水漂泊のものは、おもふ方もつまじきゆへ(ゑ)なりと、誰々もおもふかは。その比、是をきゝつたへ侍る人は、いとあはれとて、手むけしける人もおほかりしが、かつて浪子となりて、ひとへに客をあはれむといへる。まして此時の手向なるべし

支考

しにゝ来てその二月の花の時


鶴岡市羽黒町手向の烏崎稲荷神社に図司呂丸追悼碑がある。



消安し都の土に春の雪

呂丸辞世の句である。

芭蕉は追悼の句を詠んでいる。

当皈(とうき)よりあはれは塚のすみれ草


羽黒の呂丸はいまた若うして風雅の友をしたひ初て洛にのほり程なくなき身となりしこそ尚あはれなれ

國の子はわろさいふらん手向草
   智月


 智月は大津膳所の門人で、膳所藩の伝馬役川井佐左衛門の妻。乙州は智月の弟。

   呂丸追悼 三句

雲雀なく声のとゞかぬ名ごり哉
   会覚

ふみきやす雪も名残や野べの供
   去来

野を(お)くりや膝がくつきて朧月
   史邦

『芭蕉庵小文庫』(史邦編)

会覚は羽黒山別当代會覚阿闍梨。

 細道に「六月三日羽黒山にのぼる図司左吉といふ者を尋て別当代会覚阿闍利に謁す」とある。左吉の呂丸(露丸)であることは何人も熟知しておる。重行亭の芭蕉との歌仙にも、その後支考の来た時、酒田の不玉庵の歌仙にも加わっておる。後芭蕉を慕うて江戸に上り、次で西京に客死したという。その句後に掲ぐ。会覚阿闍利も、芭蕉を迎えて「南谷の別院に舎して憐慾の情こまやかにあるじ」した人ほどあって、その句一二残っておる、



 野盤子
行雲の砕て涼し礒の山
   支考

 くらき所に啼かんこ鳥
   重行

小麦苅跡の中ざし青やなて
   呂丸


呂丸の句

さひしさの胸に折込枯野かな


   松嶋にて

松しまや物調(ととのひ)しけふの月


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