芭蕉の句碑

『奥の細道』東 北


あつミ山や吹浦かけて夕すゞみ

JR奥羽本線吹浦駅下車。

吹浦は「芭蕉止宿の地」。

 元禄2年(1689年)6月15日、芭蕉は酒田から象潟に向けて出立。朝より小雨。昼過ぎ、吹浦(遊佐町)に到着。強雨のため吹浦に宿泊。翌16日、吹浦を出発。雨の中を象潟へ。

○十五日 象潟へ趣。朝ヨリ小雨。吹浦ニ到ル前ヨリ甚雨。昼時、吹浦ニ宿ス。此間六リ、砂浜、渡シ二ツ有。左吉状届。晩方、番所裏判済。

○十六日 吹浦ヲ立。番所ヲ過ルト雨降出ル。一リ、女鹿。是より難所。馬足不通。番所手形納。大師崎共、三崎共云。一リ半有。小砂川、御領也。庄内預リ番所也。入ニハ不入手形。塩越迄三リ。半途ニ関ト云村有(是より六郷庄之助殿領)。ウヤムヤノ関成ト云。此間、雨強ク甚濡。船小ヤ入テ休。昼ニ及テ塩越ニ着。佐々木孫左衛門尋テ休。衣類借リテ濡衣干ス。ウドン喰。所ノ祭ニ付而女客有ニ因テ、向屋ヲ借リテ宿ス。先、象潟橋迄行而、雨暮気色ヲミル。今野加兵へ、折々来テ被訪。

『曽良随行日記』

 吹浦駅から国道345号を十六羅漢岩に向かう途中、芭蕉の句碑があった。



あつミ山や吹浦かけて夕すゞみ

出典は『奥の細道』。

 羽黒を立て、鶴が岡の城下、長山氏重行と云物のふの家にむかへられて、誹諧一巻有。左吉も共に送りぬ。川舟に乗て酒田の湊に下る。淵庵不玉と云医師の許を宿とす。

あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ

暑き日を海にいれたり最上川

昭和15年(1940年)5月、菅原長治・高橋吉四郎建立。矢田挿雲書。

 矢田挿雲は大正9年(1920年)から大正12年(1923年)にかけて、『江戸から東京へ』を『報知新聞』で連載。

 明治26年(1893年)8月10日、正岡子規は象潟を訪れる途中、吹浦の海岸を歩いた。

 家々の振舞水に渇を醫しながら一里餘り行けば忽然として海岸に出づ。一望豁然として心はるかに白帆と共に遊ぶ。一塊の飛島を除きては天水茫々一塵の眼をさへぎるなし。吹浦に沿ふて行く。海に立ちて馬洗ふ男肴籠重げにに提げて家に歸る女のさまなど總て天末の夕陽に映じて繪を見るが如し。

      夕されは吹く浦の沖のはてもなく

            入日にむれて白帆行くなり

      夕陽に馬洗ひけり秋の海

 行き暮れて大須郷に宿る。松の木の間の二軒家にしてあやしき賤の住居なり。樓上より見渡せば鳥海日の影を受けて東窓に當れり。


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