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元禄2年(1689年)7月15日(陽暦8月29日)、芭蕉は高岡を立ち、倶利伽羅峠を越えて金沢へ。 |
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十五日 快晴。高岡ヲ立 。埴生八幡ヲ拝ス。源氏山、卯ノ花山也。クリカラヲ見テ、未ノ中刻、金沢ニ着。
『曽良随行日記』 |

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大正6年(1917年)、小矢部市平桜に生まれ、東京帝国大学工学部(現在の東京大学)を卒業。昭和47年(1972年)、市長に就任。昭和61年(1986年)に亡くなるまで在任した。 |
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ここは、源平砺波山の合戦のとき、平家の総師平維盛が本陣を布いた跡で、今、ここに猿ヶ堂という小さな石の堂があります。これは古伝によると、天正年間、悪猿が出て民家に災害を加えるため、これを退治し、神に祀りその祈祷のためお堂を建てたのが猿ヶ堂です。むかし、峠へ登った馬がたくさんつながれていたところから猿ヶ馬場と名づけるようになりました。
小 矢 部 市 小矢部市観光協会 |

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元禄8年(1695年)3月6日、浪化上人は京へ旅立つ。途中倶利伽羅を越える。 |
| 倶利伽羅は越路の切処なれは人馬困り |
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| 朝霞み峠を越る馬の息 | 化 |
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元禄10年(1697年)、惟然は倶利伽羅峠を越えて東北に向かう。 |
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倶利伽羅峠を越けるに いとゝたよりあはぬもとひや峰の蝉 |
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享保6年(1721年)、露川は門人燕説を伴って北越地方を行脚。倶利伽羅峠で句を詠んでいる。 |
| 加賀・越中の堺をこゆるとて |
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| 蔦紅葉たぐるくりから峠かな | 居士 |
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宝暦11年(1761年)3月19日、内山逸峰は猿ヶ馬場で歌を詠んでいる。 |
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越中と加賀との境にさるが馬場といふ所にしばらく休らひけるに、白く咲ける花のありけるを人に問ければ、辛夷の花といへば、俳諧歌、 名にしを(お)はゞ赤かるべきを猿がばゞこぶしの花は白くぞ有ける
『報恩詣都紀行』 |


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俳聖松尾芭蕉がはるばる奥の細道を弟子の曽良と共にこの地を通ったのは、元禄2年7月15日の朝でした。 |
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擬見風所造碑金城馬佛謹建之 |
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この句は芭蕉が朝日将軍とうたわれた木曽義仲の末路を涙して詠んだ句で、津幡の俳人河合見風が宝暦時代に義仲ゆかりの地、ここ猿ヶ馬場に往時を偲んで建立したものを後に至り金城馬佛が再建したものであります。 |
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この句は、越前燧ヶ城跡で詠んだものであり、又『諸国翁墳記』には、この句碑を寝覚塚と記されております。 |
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『諸国翁墳記』に「寐覚塚 加賀倶利伽羅山ニアリ 見明建之」とある。 |
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大正14年(1925年)8月28日、荻原井泉水は倶利伽羅を訪れ猿が馬場で芭蕉の句碑を見ている。 |
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雑草の中にちらほらと咲ているのは萩の花だった。薄も、もう穂を立てていた。一番早く時節を語るものはこうした草のそよぎなのだ。私達は猿が馬場という所まで来て、又腰をおろした。芭蕉の句碑が立って、そこでは虫がしげしげと鳴いていた。 義仲の寢覚の山か月悲し 芭蕉
『随筆芭蕉』(倶利伽羅越え) |
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昭和28年(1952年)10月24日、水原秋桜子は夜行列車で倶利伽羅峠を過ぎる。 |
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十月二十三日夜、上野発金沢へ向ふ。 二十四日朝、倶利伽羅峠をすぎて 残月にせまりて高し山の稲架
『帰心』 |
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昭和29年(1954年)9月27日、水原秋桜子は倶利伽羅峠を越えている。 |
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倶利伽羅峠 雁の空大風ひゞきわたりけり
『玄魚』 |
| 昭和34年(1959年)、加藤楸邨は倶利伽羅峠を訪れた。 |
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倶利伽羅峠 ぜんまいにさめてやさしき今年蛇
『まぼろしの鹿』 |
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昭和40年(1965年)、山口誓子は倶利伽羅峠に句碑を訪ねている。 |
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峠の手前の、猿ヶ馬場は源平の古戦場であるが、ブナの森の口に 義仲の寝覚の山か月かなし の句碑が立っている。芭蕉の句にはちがいないが、この句は、福井県の、今庄から敦賀へ越える燧ヶ城で作られた。燧ヶ城と云い、倶利伽羅峠といい、いずれも義仲の戦にゆかりのある地ではあるが、彼のものを此のものとするはいかが。
『句碑をたずねて』(奥の細道) |
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倶利伽羅峠 越中の雪嶺芭蕉の高さなる
『一隅』 |
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昭和42年(1967年)10月、水原秋桜子は富山から倶利伽羅峠を越えて能登へ。 |
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富山空港 蓼の穂や解けゆく雲に剣岳 倶利伽羅峠 高稲架(はさ)に雷火奔れりあまたゝび
『殉教』 |

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くりからや三度起ても落し水 |
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寿永2年(1183年) 信州の木曽山中で兵を挙げた源義仲は、京都をめざして北陸路を進軍。10万の兵を率いる平維盛と加賀・越中の国境砺波山(倶利伽羅山)で対戦した。 埴生護国八幡宮に戦勝祈願の願文を捧げ、火牛の奇計を練り、5月11日夜半、4万余騎にて一斉攻撃を開始。根井・巴両党は松永より、今井党は平家の本陣猿ヶ馬場正面の日の宮林より、余田党は天田峠より、樋口党は北黒坂から迂回して竹橋より、法螺貝を吹き、太鼓を鳴らし、鬨の声を挙げながら、角に松明を燃やした4、5百頭の「火牛」を放って突撃。 長途の行軍にまどろんでいた平家は、あわてふためき右往左往。将兵は軍馬もろともに地獄谷に馳せこみ落ちて、相重なって谷を埋め、その数1万8千余騎、と源平盛衰記は伝えている。 |

| 庵号、種玉庵・自然斎・見外斎 |
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| 文亀2年(1502年)7月30日、没。82歳。 |
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宗祇は年若くして上京、僧坊で仏道修行を続け、30歳をすぎて和歌・連歌の道に入り、刻苦勉励、人に倍する努力をつづけ、室町時代最大の連歌の巨匠として上下の人びとから尊敬された。 越後の上杉氏とは夙に懇意で、9度にも及ぶ訪問を行い、その途次数回にわたり蓮沼城に遊佐加賀守長滋をたずね、連歌の会をもよおした。 |
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宗祇連歌集 老葉(わくらば) 第十発句 遊佐新右衛門尉許にて長月ばかりに千句侍りしに月を もる月にあくるや関のとなみ山 |
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当時は、岩瀬・放生津・蓮沼へと、そこで小矢部川を渡り、倶利伽羅峠へでたという。
小矢部市教育委員会 |
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ゆするぎのしゆくをはなれて、くりからとうけにかゝる。このところ、むかし、きそよしなか、へいけとたゝかひしこせんじやうなり。とうけにくりからふとうのやしろあり。此ところたてばのちや屋いづれもひろくきれいにて、とうかいどうのちや屋のごとく、このかいどうにはめづらしくよきちや屋にて、さとうもち、めいぶつなり。このところは、ゑつちうかゝのさかひなり。 商ひに利生ぞあらんくりからの 不動のまへの茶やのにぎはひ 爰元は柴栗からのちや屋なれや はかえいこむほど往来の客
「越中立山参詣記行」 |

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十返舎一九は、明和2年(1765年)駿府(静岡)に生れる。天保2年(1831年)8月7日、又、7月29日ともいう。 享和2年(1802年)「東海道中膝栗毛」を刊行して満都の人気を集めた。続いて文化10年(1813年)から天保5年(1834年)にかけて「金草鞋」を著作。 「金草鞋」は25編6巻から成り、画は歌川国安である。その第18編は、「越中立山参詣行方言修行金草鞋」と書き、外題に「越中道中ひざくり毛」と記し、文政11年(1828年)に刊行した。 緒言に |
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「予一とせ加越に遊びて祥(さいわい)に立山に詣でたりしに、満山の荘厳奇異にして、実に人我を絶すの霊場なれば、信念の余り、その光景をあらわし、遠境の人の参詣の便となす。」 |
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と、記し、越中の地名・宿名・名所・旧跡を紹介し、随所に狂歌を挿入し、また、旅人の会話・動作を織り込み軽妙な詠みものとなっている。 親不知を越えて越中に入り、相(愛)本橋・三日市・魚津・水橋を経て神通川舟橋でその景観をたゝえ、立山へ参詣。もどって小杉・高岡・氷見から荒山峠を越えて和倉温泉に遊び、高岡へ引き返し、川舟で石動へ、或は陸路、立野・岡を通り石動へともいう。 石動から、くりからを越えて加賀へおもむく。 石動の宿を離れて、倶利伽羅古戦場、くりから不動様へといたりて、 商ひに利生ぞあらん倶利伽羅の不動の前の茶屋の賑はひ たいへんおはやりなされる、あらたかな不動様でありますので、このようににぎわっております。という意味であろう。 ここに、往時の北陸道の歴史と文化を誌し、後世に伝えようとするものである。
小 矢 部 市 小矢部市教育委員会 |

