俳 人
河合見風
加賀津幡の俳人。河合屋理右衛門。希因に俳諧を学ぶ。蕉門三世。別号雪灯下。
正徳元年(1711年)、津幡宿の商家に生まれる。
寛保年間(1741 〜1744)に
「有磯塚」
建立。
早稲の香や分け入る右は有磯海
寛延2年(1749年)8月5日、幾暁は金沢を去り津幡へ。
葉月五日金城を去て、津幡駅
雪燈下に夜話す。
竹過る雨の数とや虫の声
幾暁
月まちて肌のあかるき夜寒かな
見風
此地往来八十余章あり。
鐘つゐて猶おもしろき柳かな
見風
『
俳諧
百合野集』
倶利伽羅峠
に「寝覚塚」を建立したが、今はない。
芭蕉塚
義仲の寢覺の山か月かなし
金城馬佛の再建碑である。
明和2年(1765年)、「為広塚」再建。
明和2年(1765年)4月6日、内山逸峰は見風宅に泊まり既白に会っている。
六日、今石動を出て行に、砺波の関路の跡ちかきあたりといふなる所に、藤の花のさかりなるを、
自ら人をとゞむるゆかりにもむらさき匂ふ関の藤波
こ宵見風子にやどる。既白といへる法の師にあふ(う)て、
思へども筆にはいかで杜つばた心の色をそふることのは
かへし
墨染にそぐはぬ色や杜若 既白
『
草稿
西国道記』
明和5年(1768年)5月、津軽深浦の廻船問屋里圭が見風を訪れ、20日間ほど滞在。
明和6年(1769年)、『東もとり』(見推編)刊。雪鬼屈見風序。
明和8年(1771年)、
加舎白雄
は「北越紀行」の旅で見風を訪れている。
九年わらはやみにみづから白蓮摩とよぶ見風老人が桑枢を叩て、
しづかさやもたれ柱の蠅はらひ
「北越紀行」
安永4年(1775年)、木兎坊風石は象潟行脚の帰途見風を訪れている。
聞へし、津幡の見風子を訪ひて盆中の
喧しき此果物にてしのきける、俳諧略
之、まことに逸人也
ゆふ暮や盆となりける町つゝき
木兎
『二度の笠』
天明3年(1783年)4月1日、73歳で没。
津幡城跡
に見風の句碑がある。
はつなすびそれから花のさかりかな
見風の句
かきつはた男はふるし田うへ笠
『二笈集』
魂棚や踊たい手をついて居る
『張笠』
名月に憎れて見る門の松
『ぬれ若葉』
一さかり雲いそかしや歸り華
『つくば紀行』
待宵や寝に行人もにくからず
『
俳諧
百一集』
曙の只ならぬ鴫の沢辺哉
『
蕉門
むかし語』
これですむけしきではなし梅の花
『おもかげ集』
冬籠のがれしうへの世なりけり
『加佐里那止』
秋たつや小家かちなる汐けふり
『そのきさらぎ』(第四編)
うぐひすの跡もありげに初音哉
『文くるま』
涼更てめしかりにやる庵かな
『岱表紙』
初しくれ竹ふるはせて見たりけり
『しぐれ会』(安永2年刊)
小原女にたはこ振舞ふ雪見哉
『
俳諧
菊の露』
時雨すやふるき菅蓑檜木笠
『しぐれ会』(安永5年刊)
東風ふくや鳥また塵をほしからす
『桐の影』
百迄は花て請合ふくへかな
『蕉翁追善集』
花守ハまた埋火やおほろ月
『猿墳集』
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