2008年下 町

学習院大学〜芭蕉の句碑〜
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清土鬼子母神から目白通りに戻り、学習院大学へ。


明治17年(1884年)、谷干城2代学習院長に就任。

北別館


明治42年(1909年)、図書館として建てられた。

西5号館


学内で一番新しい建物。煉瓦造りのエントランスが美しい。

明治40年(1907年)1月31日、乃木希典は第十代学習院長を兼任。

乃木館


 明治41年(1908年)8月、学習院が東京府東京市四谷区尾張町(現:東京都新宿区四谷)から東京府北豊島郡高田村(現:東京都豊島区目白)に移転した時に建てられた。

院長乃木希典は、この建物で学生と寝食を共にした。

 昭和21年(1946年)、安部能成は第十八代学習院長に就任。

 昭和23年(1948年)7月11日、星野立子は玉藻勉強会で学習院へ。

 七月十一日、玉藻勉強会。(百合、滝)。

 今日から四日続けて勉強会をすることになつた。学校廻りを目的としてまづ学習院へ行く。院長の安部能成さんの院長官舎の応接間を拝借して句会場とする。

  ホツケーの球の音叫声炎帝


富士見茶屋跡に芭蕉の句碑があった。


目にかゝる時や殊更五月富士

出典は『芭蕉翁行状記』(路通編)。

文化7年(1810年)、雑司ヶ谷の俳人金子直徳(宗周)建立。

直徳は二世白兎園広岡宗瑞の門弟。俳号は宗周。

高田新田 富士見坂

富士見塚

目にかゝる時や殊更五月富士


血洗の池


 堀部(中山)安兵衛が高田馬場で伯父の仇討ちをした帰り道、この池で血の付いた刀と着物を洗ったという。

大正から昭和の初め頃、学生の間に出来た伝説らしい。

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