2018年熊 本

笹原家の庭〜高浜虚子の歌碑〜
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昭和26年(1951年)、高野素十は小国、阿蘇へ。

   小 国

小国より又三里来て冬山家

芋水車廻るところに君と逢ふ

   阿 蘇

牧守が寒し寒しと腕を組み

末枯の牧の細道見しばかり

『野花集』

 昭和27年(1952年)11月10日、高浜虚子は笹原耕春を訪ね、2泊している。

小國町南小國村芋水車

      十一月十日 小國を突破して阿蘇外輪山に至る

かけて見せ外しても見せ芋水車

      十一月十二日 昨夜も亦耕春居泊り


小国町宮原に笹原邸がある。


笹原家の庭と二つの文学碑

 笹原家は小国町の代表的旧家で、当主の芳介(俳号耕春)氏は若い頃から文学に親しみ、特に小国は俳句が盛んであったことから、句作に励み高浜虚子の主宰する俳誌「ホトトギス」で活躍し、昭和34年に同人に推された。

高浜虚子の歌碑


火の国の火の山裾の山並の幾尾根越えて小国やはある   虚子

 虚子の句碑は、全国に現在150以上あるが、虚子の歌を刻んだ歌碑は日本でこの耕春邸のものが、唯一である。

 この歌のいきさつについては、昭和28年5月号の中央公論に、虚子の小説「小国」として詳しいが、要約すれば「昭和24年九州入りした虚子一行は。小国を訪れる予定であったが、事情により突然中止した。

 小国では、虚子一行が明日は訪れるものと待ち受けていたところへ、この知らせが届き一同落膽したが、中でも耕春の妹梨影女は声を上げて泣いた。後日、虚子にこの事を伝える者があり、この歌の外2首を耕春・梨影女へ贈って来た。

 それから3年後の昭和27年11月、虚子は小国を訪れ、耕春居に2泊した。昭和53年秋、耕春は、この歌碑を建てた。

高野素十の句碑


一日の阿蘇行その後冬籠   素十

 高野素十は、虚子門弟第一の俳人、茨城県の人、晩年、主宰した俳誌「芹」に、虚子亡き後、輩下の小国俳人を引き連れ、その指導を仰いだ。

 素十は、前後7回小国を訪れ、この耕春宅に旅装を解いた。

 句碑に刻まれた句は、昭和26年11月、2回目の小国訪問の際、耕春へ贈られたもので、この時、素十は小国に3泊し、明くる11月3日、大観峰吟行の後、内牧温泉の地元俳人の歓迎句会へ臨んだ。

 発熱を押してお供する耕春の姿は誰の目にも痛々しく映った。句会終了後、1枚の短冊を所望した素十は、この句をしたためて耕春に贈った。

 昭和52年、耕春は自宅の庭にこの句碑を建てた。

笹原耕春邸茶庭

 この庭を造った平山繁夫、号砂庭は大分県別府市の人、千葉高等園芸学校造園科から東北帝国大学法文学部美学科に学び、文部省文化課や国会図書館に勤務したが、役人勤めは肌に合わず、退職した。これを惜んだ東北帝大の恩師の世話で、日本女子大学の講師に迎えられたが、生来の人と妥協を許さぬ性癖が禍いして、こゝも退職し故郷の別府へ引き籠ったが、昭和56年64歳で病没するまで、遂に就職せず作句と作庭による、孤独の一生を終った。

 彼は文部省の委嘱を受けて、国指定の史蹟の庭園修復や成田山新勝寺の作庭などを手がけた。この庭を造ったのは、彼の晩年で、耕春の好みを多く取り入れ、山採りの櫟や朴を使った回廊式茶庭である。庭奥の左手の四阿でゆっくりくつろいで、ご鑑賞ください。

オニユリが咲いていた。


昭和34年(1959年)3月24日、高野素十は阿蘇から笹原耕春宅に着く。

   小国、耕春居着。濡れたるものを乾かし、泥まみれの靴の掃除等の介
   抱を受け、炬燵にて昼飯。小国の人々に別れ方城へ旅をつゞく。夜三
   菱方城鉱業所着。

片側に花二三本ありし坂

『芹』

大観峰へ。

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