九州最北端に位置するするこの神社は、社記によると、仲哀天皇9年に比賣大神(ひめのおおかみ)、日子穂々手見命(ひこほほてみのみこと)、鵜茅葺不合命(うかやふきあえずのみこと)、豊玉日賣命(とよたまひめのみこと)、阿曇磯良神(あずみいそらのかみ)の5柱の神を祭神として創建され、江戸時代までは、速人(はやと)社とか隼人(はやと)社と呼ばれていました。 近世末までは、時の領主である大内氏、毛利氏、細川氏、小笠原氏の崇敬庇護暑く、神殿前には細川忠興公が寄進した灯籠があります。 この神社には古くから和布刈神事が伝えられていますが、李部王記によれば、和銅3年(710年)に和布刈神事のわかめを朝廷に献上したとの記録があり、奈良時代から行われていたものです。 神事は、毎年旧暦大晦日の深夜から元旦にかけても干潮時に行われます。3人の神職がそれぞれ松明、手桶、鎌を持って海に入り、わかめ刈り採って、神前に供えます。 わかめは、万物に先んじて、芽を出し自然に繁茂するため、幸福を招くといわれ、新年の予祝行事として昔から重んじられてきたものです。 神事のうち、わかめを採る行事は、県の無形民族文化財に、また、当神社に伝存する中世文書9通は、市の有形文化財に指定されています。
北 九 州 市 北九州教育委員会 |
ここ和布刈神社では、毎年12月晦日寅の刻(午前4時)に神官が海中に入って水底の和布を刈り、神前に供える神事がある。 今日はその当日なので、神職の者がその用意をしていると、魚翁(竜神)と海士女(天女)とが神前に参り「海底の波風の荒い時でも、和布刈の御神事の時には竜神が平坦な海路をお作りなさるから出来たのである」と神徳をたたえて立ち去った。 やがて竜女が現れて舞い、沖から竜神も現れて波を退け、海底は平穏になった。 神主が海に入って和布を刈り終わると波は元の如くになり、竜神は竜宮に飛んで入る。 神前へ御供えの後最も早い方法で朝廷へ奉じられた。史実に現れたのが元明天皇和銅3年ですので、それ以前神社創建時より御供えとして用うる為神事が行われていたと思われます。
謡曲史跡保存会 |
文明12年(1480年)9月11日、飯尾宗祇は連歌の会で発句を詠んでいる。 |
明るあした、道場にて会有。発句、 舟見えて霧も追門(せと)こす嵐かな 翌日、又門司下総守能秀の舎(やど)りにて会有。 戸ざしせぬ関にせきもる紅葉かな |
貞亨元年(1684年)6月、大淀三千風は和布刈神社を訪れている。 |
かくて旅舎(や)の隱居。宗意禪門を倡(いざな)ひ。西の山なき筋の濱の名石を拾ひ。猶檍(あはきが)原の波間よりあらはれ初し。神の本宮にまうづる。いと古久(かみさび)たる清社(すがやしろ)。奉納の一軸に。 ○凉風植しこゝぞ神松のもとつゝを ○此社には奇異の什物あり。中にも宗祇法師。古名哲の短冊を百枚寄進せられし。希代の重寶なり。此神職(つけ)みどり□(※「衣偏」+「夫」)。季實翁。古來まれなる霜眉ちはやふり連歌にあやしく。翰(ふで)の道はたうつくし。予にも挨拶の秀作し給ふ。 世に匂ふ翰林(ふでばやし)の雲の葉は かきとめがたし文字の關守 長門住吉社官吏部賀田氏 季實
『日本行脚文集』(巻之三) |
明和8年(1771年)5月、蝶夢は「和布神事」のことを書いている。 |
隼人の社のあれば、隼人の迫門(せと)とも申とぞ。いつも師走の卅日の夜、此海のさながら干て、沖の石に付し和布を、神主の鎌もてかりて神供に奉る事、今に絶ずといふ。また此海の石を硯に賞(めづ)れば、硯のうみともいふならんかし。 |
明治43年(1910年)2月24日、河東碧梧桐は和布刈神社に詣でた。 |
門司に渡って和布刈神社に詣でた。社の梅はもう散り方になっていた。 |
昭和16年(1941年)6月1日、高浜虚子は満鮮旅行の途次、和布刈神社を訪れて宗祗の句碑を見ている。 |
六月一日。門司着。福岡の俳人達に擁されて上陸。和布刈神社に 至る。門司甲宗八幡宮にて披講。「船見えて霧も瀬戸越す嵐かな 宗祇」の句を刻みたる碑あり。 夏潮の高低こゝに門司ケ関 船虫の人に馴れ這ふ和布刈かな 夏潮の今退く平家亡ぶ時も 夏潮や上りかねたる船二艘 |
昭和十六年六月一日、虚子は関門海峡に臨み名にし負う早鞆の瀬戸を見下ろした。対岸には指呼の間に壇ノ浦が見え、そこには安徳天皇を祀った赤間神社がある。 折しも落潮時を迎えた潮流はその流れを逆転させ瀬戸内から響灘に向かって轟々と音を立てて奔流する。この雄渾な退潮のさまを眼前にしながら虚子は、はるか寿永の昔、この地で戦われた源平の最終戦争、壇ノ浦の合戦に思いを馳せたのである。この合戦では、初め平家が有利であったが、退潮時となり潮流が逆転すると源氏はその流れに乗り一気に平家を撃破し、平家一門は海の藻屑となって滅び去った。 平家が滅びたのはまさに目の前の退潮時であったのだと感慨にふける虚子の脳裏には、平家滅亡の様子が手に取るように見えていたのかも知れない。 |
久保晴、和布刈神社境内に其句碑を建つるとのことにて句を徴さ れて。 宗祇の碑と並びあること先づ涼し |
明治31年(1898年)、現在の豊前市に生まれる。 |
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昭和25年(1950年)7月、句碑建立。 |
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昭和51年(1984年)、没。 |
昭和27年(1952年)11月7日、星野立子は和布刈神社へ吟行。 |
十一月七日。午前中、門司の和布刈神社へ吟行。午後、 父達の待つ別府へ。その夜句会。 和布刈岩十一月の潮流れ 旅先に別れて逢ひて秋灯火 旅早やも十一月の七日も夜 |
昭和28年(1953年)1月、阿波野青畝は和布刈神社を訪れる。 |
和布刈神社 動くなり潮待舟も和布刈男(めかりを)も 磐境(いはさか)として突き出たり春の潮 ほんだはら速吸門(はやすひのと)の渦に浮く
『紅葉の賀』 |
昭和33年(1958年)4月29日、虚子は再び和布刈神社を訪れている。 |
お宮に尚ほ古い感じは殘つてをるが、その他は明るくなつてしまつた。新らしく出來た海底トンネル(人道)の入口のあたりは、人出が大變である。新らしく建つた集會場で俳句會。九州はもとより、四國、山陽等から數百人參集。 故山本元帥の副官であつた今の門司第七管區海上保安本部部長渡邊安次氏來訪。元帥最期の模様をつぶさに聞く。 |
神官の着ている |
白い装束だけが火を受けて、 |
こよなく清浄に見えた。 |
この瞬間、時間も、空間も、 |
古代に帰ったように思われた。 |
小説「時間の習俗」より |