大正10年(1921年)、起工。 大正12年(1923年)、関東大震災により工事中断。 大正14年(1925年)7月6日、竣工。 |
加賀藩主前田氏が、現在の赤門から池にかけての一帯の地を将軍家から賜ったのは、大阪の役後のこと。
園池を大築造したのは寛永15年(1638年)、豪宕で風雅を好んだという当主前田利常のときである。彼の死後、綱紀がさらに補修をして、当時江戸諸侯邸の庭園中第一と称せられた。育徳園と命名され、園内に八景、八境の勝があって、その泉水・築山・小亭等は数奇をきわめたものだといわれている。池の形が「心」という字をかたどっており、この池の正式名称は「育徳園心字池」なのだが、夏目漱石の「三四郎」以来、三四郎池と親しまれている。 |
横に照りつける日を半分背中に受けて、三四郎は左の森の中へはいった。その森も同じ夕日を半分背中に受けている。黒ずんだ青い葉と葉のあいだは染めたように赤い。太い欅の幹で日暮らしが鳴いている。三四郎は池のそばへ来てしゃがんだ。
『三四郎』(二) |
十一月二十九日。東京玉藻句会、東大内の山上御殿に 集る。美しい落葉する日であつた。三四郎池に散り込む 落葉はいつまでも見てゐても倦きなかつた。 部屋広し日向ぼこりの処得ず 漸くに処を得たり日向ぼこ
星野立子・未刊句日記 |