虚子の句碑
天の川の下に天智天皇と臣虚子と
大正6年(1917年)10月18日、高浜虚子は太宰府を訪れる。吉岡禅寺洞同道。 |
天の川のもとに天智天皇と虚子と 大正六年十月十八日 筑前太宰府に至る。同夜都府楼址に佇 む。懐古。 |
大正7年(1918年)、吉岡禅寺洞は清原枴童らと「天の川」を創刊。 |
夜都府楼址に佇む |
||||||||
天の川の下に天智天皇と臣虚子と |
古い父の句集には「懐古」と前書きがある。先年父と共にこの句の出来たという筑紫の都府楼址に佇んだことがあった。昔、外敵が我が国の辺境を侵す恐れのある時代があった。其頃筑紫、即ち九州に都府楼というのが置かれて、其処が大本営になっていた。その頃、天智天皇は皇太子であって殆ど軍の総帥として其地に赴かれたという事がある。その都府楼址に一個の石碑が立っておる。父は昔、友人と一緒に其処を訪ねたのである。道で日が暮れて携えておった蝋燭に火を灯して漸く都府楼址という文字だけを読むことが出来た。空には天の川が空の果てから果てまで流れておった。暫く懐古の情に浸っておった時に此句が出来たとのことである。 |
昭和二十八年十一月福岡県筑紫郡水城村の都府楼址(旧太宰府政庁の址)にこの句碑が建てられた。尤もその場所は現在史跡都府楼址として指定されて居る地域と街道を距てて相対する位置にある。高さ四尺二寸、幅一尺五寸。 |
昭和30年(1955年)5月8日、富安風生は太宰府を訪れ、高浜虚子の句碑を見ている。 |
太宰府行、春池、烏三公両君東道 道ばたに師の句碑立たす春深し
『古稀春風』 |
昭和30年(1955年)5月21日、高浜虚子は句碑を見ている。 |
五月二十一日。汽車にて博多へ。 都府樓の句碑を見る。 天の川の下に天智天皇と臣虚子と 虚子 これも一昨年私の行くのを待つて除幕する筈であつたもの。觀世音寺も近く、花鳥山佛心寺も直ぐそこにある。
「詫びの旅」 |
昭和36年(1961年)5月、中村草田男は高浜虚子の句碑を見る。 |
「天の川の下に天智天皇と臣虚子と」なる先師の句を誌し たる碑の前に佇む。 その師も逝きぬ昼の銀河と時茫々
『時機』 |